スキャンダルの「公」と「私」

塩尻高校

きょうのオープン戦最終ゲームの対ソフトバンク戦。
カープの菊池涼介選手が先発出場していて安心した。

きのうは出場機会はなかったし、それまでの数試合、やすやすと一二塁間をゴロで抜かれる場面を何度か目にしていたので(今日も1本あった)、何かアクシデントでもあったのかと心配していた。

そんなこんなのところに発覚した昨日の女性スキャンダル。
この問題がこのところの不調に影を落としていたとは思いたくはないが、まったく影響がないわけでもないだろう。

彼は日頃からグラウンドと私生活とを意識的に線引きして、プライベートを公開することはなかった。
それが、思わぬかたちで暴披露みたいなことになってしまったのは、本人にとっては不本意なことだろう。

チームメイトへの細やかな配慮、ファンへの勇気ある提言と、日頃からの意識の高い言動には注目していた。
公私の明確な区別はまた、彼のプロ意識の反映でもあって、その意向は尊重されるべきだとも思っている。

今回の菊池選手のスキャンダルは私生活でのこと。
あれこれ詮索するのは、控えるべきだろう。

しかし、そんなことに配慮をしないのがスポーツ芸能メディア。
菊池選手も火だるまになるのではないかと心配していたが、意外にもそれは杞憂に終わったらしい。

ネットで週刊朝日のアエラbotが記事を配信してから、後追いしたメディアをひとつも見てはいない。
スポーツ新聞どころか、ネットメディアからも1本も配信されてはいないようだ。

それが菊池選手の信条に配慮してのことであれば結構なことなのだが、スポツ芸能メディアにそんなデリカシーがないのはご存知の通り。

だとすれば、この不可解な沈黙には他の力学が働いていると疑ってみるべきだろう。
はっきりいえば、球団から箝口令が敷かれているのではないか。

あらためていうが、菊池選手のスキャンダルが世間の噂話の好餌になることを期待しているのではない。
しかし、事態の内容を見れば多少論評の的になるのは仕方がないし、菊池選手としても報道が多少加熱することは覚悟していたことだろう。

ところが、ネットはさておきメディア的にはほとんど凪のような状態だ。
そこに前述のような力が働いているのだとすれば、そのことを問題視するべきだといいたいのだ。

繰り返すが、今回のスキャンダルは菊池選手個人のことだ。彼のプライベートにあれこれ嘴を挟むべきではない。
しかし、公器とも言える球団にスキャンダルが発生した際に、同じ力学で沈黙が生まれてしまうのは、決して好ましいことではないだろう。

先のチケット購入の抽選券配布についても、あれだけの問題でありながら是非を問うことも、後日の検証もメディアではほとんどなされなかった。
もしそこにも同じような力学が働いていたのだとすれば、残念なことだ。


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