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イメージで咲かせた黄金の花

天皇すめろきの  御代みよ栄えむと  あづまなる  陸奥山みちのくやまに  黄金くがね花咲く   
 

黄金の花イメージ

巻18の4097 大伴家持
天平感寶元年五月十二日、越中國守の館にして大伴宿禰家持作れり。   

一般訳
天皇の御代が栄えるようにと、東国の果て、陸奥の山に黄金の花が咲いている。 

解釈
聖武天皇の時代、天平21(749)年のきょう2月22日に陸奥の国、いまの宮城県遠田郡湧谷町の黄金神社のあたりでわが国ではじめて金が産出され、それが朝廷に献上された。ちょうど奈良の大仏を鋳造していたときで、そこに箔す金の手当に苦慮していた天皇は、この慶事をよろこんで宣命をだした。その報せを受けた大伴家持が、金の産出が天皇の神徳によるものであり、そンな天皇に臣下であるわたしは命を賭してお仕えするとの長歌と、それにたいする反歌3首を詠んだ。その反歌のうちの1首がこの歌。

宣命のなかで天皇が大伴家の忠誠を讃えていたことから、これに感激した家持は、面映ゆいほどの天皇賛美を長歌に詠いこんでいます。
「天皇が代々にわたって善政をなされ、諸人を導き、大仏造営のような素晴らしいことをはじめられたので、金が欲しいとの願いに応じて、鳥が鳴き陸奥に金があるとの啓示を与えてくれたのです」とまあ、こんな感じです。

したがって、ただ偶然に陸奥で金がでた。それは天皇の御代が栄えるようにとの吉兆なのだ、喜ばしいことだという理解だけでは家持の気持ちを十全に汲んだことにはならない。家持は長歌で、天皇の徳があったからこそ、天が黄金のありかを教えてくれたのだといっている。それを受けての返歌です。もっと深掘りして味わいたいものです。

「東なる」は陸奥にかかる枕詞です。都から遠く離れた最果ての地で金が採れた。その距離感が天皇の治世のあまねく広いことをも訴えている。「陸奥で金が採れた」という事実を「天皇の治世が広く行きわたり、その御代が永遠につづくように」と願っている。そう詠うことで呪的な実現を図ろうともしているのでしょう。
採掘された金を「黄金の花」に変容させることで、天皇の御代の繁栄を願う祈りを現実として開花させようとしてもいるのでしょう。

スピリチャル訳
金が採れたという陸奥の山に黄金の花が咲いていることだろう。神武以来の神徳を受け継ぐ天皇の御代がさらに栄えるようにと、天の神々が寿いで。

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