話の軸を安易に手放すこと

作品作りで、特に推敲の段階でしていけないのは、話の軸になる要素を安易に手放すことだ。初期段階ならば追加要素を取り込んだり要素を入れ替えても軌道修正できるが、最終段階でそれをやるとほぼ確実に作品は求心力を失い空中分解して頓挫する。何度経験したことか。

しかし、心がひ弱な創作者は自分が温めてきた作品への疑いを持ってしまいがち。
疑うならもっと早い段階で疑うべきだったし、すでに大詰めならば、それがたとえみんなから無視あるいは嫌悪され唾棄されるようなものだと思ってしまっても、軸になる要素は手放すべきじゃない。

もちろん、その作品を完成させる必要がないなら、その限りではない。そして、心がひ弱な創作者は、自分の中に有ったはずの「完成させる必要」すら信じることが出来ないから、ちょっとしたことで簡単にそれを放棄してしまう。

彼がそうしてしまうのは、実は「正しく有りたい」からなのだ。
駄目なもの、間違ったもの、無駄なもの、ひどいものなどは存在すべきでないという気持ち。文字で書くとあれだけど、多くの人が無意識に持ってるそういう欲求に流されやすいからなのだと思う。
そして彼がそうなるのは、自分の心を「正しくない」という批判から守りたいからだし、自分が作った作品は「駄目じゃなく、間違ってなく、無駄じゃなく、ひどくないもの」であるべきだ、あって欲しいと願っているからだ。
その結果、確かに正しくない作品は生まれないかもしれないが、正しい作品ももちろん生まれない。なにも生まれない。

あるSF作家の言葉じゃないがこの世の99%は駄目だったり間違ってたり無駄だったりひどい部分を抱えたものではないだろうか。
そうであっても立ち止まることなく、完成され世に出されたもの、そういったもので世界は構築され動かされている。
彼の作品もまた、そういった不完全なものの一つに加わるだけだと考えれば、彼もいくらか気が楽になるのではないだろうか。ならないか。

創作物を完成できるかできないかの境界線の一つは、「作品の軸になる要素」や「完成させる必要」を最後まで手放さずに居られるかどうかにある。
力のある人は「最後まで良いものにしようと努力すべき」と言うだろう。「批判を恐れるような心が弱いやつに創作する権利はない」とまで言うやつもいる。(昔の私がそうだ。自分に向けた言葉だったけど。)それができる人はそれをすればいい。
それができない、でも作品を作りたい人間に必要なのは、「みんなが納得するほど良いものじゃないかもしれないけど最後まで手放さず完成させる」ことだ。

そうだぞ、自分。

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