「創作」としての「排泄」

自分にとって一番大切でなにものにも侵し難いものは何かを考えたとき「自分の中にあるものを表に出すこと」であるという結論に(現時点では)至った。

これは、いわゆる「受け手」を想定してそこに届けるというものではなく、あくまで自身の内側にあるものを外に出す行為であり、自分自身の感覚で言えば「排泄」という表現がとてもしっくりとくる。

それは受け手を想定していないが故に自由であり、プリミティブであり、雑多であり、混沌であり、純粋であり、暴力であり、奔流であり、力強さであり、神聖である。

自分にとって今までと今現在を通して一番この「排泄」の手段として使いやすいのが「作曲」であり、次点で使いやすいのが今行っているような「文章化」だ。

上記のように「排泄」はそれ自体が目的であり、他者への理解や共感を求めるものとは全く違う。一線を画している。そこには明らかに交わることのない細胞膜のようなものが存在している。

そして、今、この文章をここに書き記す際に、自身で編集や校正を入れているが、その行為自体がもう「排泄」とはかけ離れてしまっている。
「他者」を意識した瞬間に、プリミティブなものではなくなってしまう。

このノートも、どこかの時点で「排泄」ではなくなったことをここに証言しておかなければならない。



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