風の日の散歩
風の強い日に散歩に出た。
ハルジオンがなびいて太陽にめくばせする。
カラスノエンドウは少し眠そう。まどろみに色を濃くする。
春の柔らかい欅の葉が軽い低音を奏で、楠は減衰の早い高音を受け持ち、ヒマラヤスギがチャーミングなアクセントを加える。
ザラザラ、サワリ、シャラン。
ザリザリ、カラリ、シャラララン。
少し離れると、全部混ざってどどうどどうと空を鳴らす。
南の風、春の勢い。
書を捨てよ、町へ出よう。
と言う寺山修司の言葉を、逆に言うのが流行っているようだ。
でも、「町を捨てよ」とは言えないからか、微妙に歯切れの悪いアレンジが多い。
なんてことを言うくらいなんだから、わたしならどう言う?ということをずっと考えているのだが、
書を開け、町はそこにある。
かな。
寺山修司が「町が既に書物だ」って書いていたと思うのだけれど(手元にない)、それって逆もまた然りだなと思うので。
寺山修司の『書を捨てよ』はアンドレ・ジッドの「地の糧」にあるナタニエルへの呼びかけが底になっているのだそうだ。
わたしはジッドはかなり好きなのだけれど、この人の厳格なプロテスタント的抑圧に押しつけられた多くの価値観からの解放経験から来るように見受けられる「知識より外海の実感」的態度は、多くを身に納めたからこそ、実体験として言えることだと思う。
わたしは不幸にも凡庸な子どもで、人間の思いついたものがこの世界の「外」にあるわけがないのを早々に気づいてしまったけれど、それほど勤勉にもなれなかったので、町に出るときは書を携えてしまうカッコのつかなさ、中途半端で今やGoogle中毒だ。感じたことをあたり直すことに夢中というようでは独立した知性とは呼べまい。
しかしまあ、要するに、どのスタンスを取ろうと、それに関する情報が多くあることは、知覚したものへの理解をより深くする。今風にいえば解像度を上げる。
「書」と「町」の間を行き来して生きるのが人間というものの在り方の理想ならば、今は少し「書」を多めにして、たまさか与えられる「実感」の豊かさに酔いしれるのも良いのだろう。
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