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レーズンロールと小公女 わすれられない本と食べもの1

レーズンロール。

レーズンがたくさん入っていて、ふかふかしていて、食べやすい大きさに丸められているあれ。できたらレーズンはカレンズが嬉しい。

スーパーで袋売りを見かけても、特に食指はうごかないのに、暖かな光を放つパン屋さんでまるっと香ばしい色に整然と並ぶレーズンロールを見ると、ついどうしても、ひとつふたつトレーに取ってしまう。そしてそんな時、わたしの脳裏では決まって、惨めに濡れて光る凍てついてもなお臭いロンドンの石畳がちらついているのだ。

昔、わたしには同じ本を繰り返し読む癖があって、その中でもとりわけよく読んだ本の一つに「小公女(F. H. バーネット, a Little Princess)」があった。版が特定できないのだけれど、青い筋の入ったクリーム色の文庫だったような気がする。

そもそもわたしは誰かが誰かを虐げる様子というのをどうしても見ていられない肝の座らない子供で、テレビアニメの「キャンディキャンディ」は意地悪な女の子が出るたびに隣の部屋に逃げ、場面が変わってから呼び戻してもらっていたくらいの弱虫だったので、「小公女」だって最初の1回はミンチン先生や料理番が胸糞悪くてとても嫌だったように思う。それでも繰り返し読んだのはなぜだったか…寒さひもじさの対比として描かれる、後半の温かさ、思いやる気持ちや安心感みたいなものを感じたかったのかもしれない。誰かもわからない人に親切にしてもらえる魔法のような奇跡のありようや、最愛の人が死に境遇を変えられるような辛い経験ですら、一応の終わりが来る、という物語のありようは、わたしにとっても救いだった。

そんな中で、ろくな衣服もなく凍え、いつも空腹を抱えるセーラの不幸の頂点とも言えるのが、パン屋さんのシーンなのだ。

特に惨めできつい1日の終わりに、セーラはお使いの道端で硬貨を拾う。そしていかにも幸福の象徴のようなパン屋の優しいおかみさんに、ためらいながらもレーズンパンを売ってもらう。大きくてほかほかふかふかつやつやだという焼きたてのパンを、しかし彼女は、店を出るなり浮浪児の女の子にほとんどやってしまうのだ。自分だってろくに物を食べられていないのに、それでも相手を思いやれる児童セーラはほとんど超人である。わたしだって、なんて思えるほどうぬぼれる余地がなかったわたしはどちらかというと浮浪児の気持ちで彼女を見送る。なにせ葡萄パンをもらったのがきっかけで、やがて食事と職にありつくのだ。すごい。強い善なる意志には他人まで巻き込む力があるらしい。

少しばかり先走ってしまったが、どんなに恵まれた高度経済成長後期の日本のこどもでも、多少の寒さや辛さやひもじさは経験しているわけで、直前までセーラの惨めさに同化していた子供のわたしには、パン屋さんの描写と焼きたてのレーズンパンの記憶は強烈すぎたし、餓死しそうな飢えの最中に味わう焼きたてのレーズンロールという想像は奇妙にリアルだった。やがては現実で食べるたびに、これを他人に差し出すのか、となんだかしみじみと表面の刷毛目を眺めるようになる。そして「他のものにはなるまいとしたのです」というセーラの台詞--不幸の終わりにつぶやくその一言を、甘酸っぱいぶどうの風味とほのかなイーストの香りとともに噛みしめる。

わたしにとって、セーラのレーズンロールは「矜恃」という言葉の象徴に他ならない。あんな素朴な他愛ないロールパンに大げさだろうか。でもそれは、取るに足らない子供でも、気持ちひとつで自分の在り方を決められる、そんなセーラのものがたりにも重なるものがあるように思えてくるのだ。

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