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書くことの怖さ

書くというのは実はとても怖い行為だ。
なぜならそこに「書かなかったこと」が厳然と立ち現れるから。
人間が一生に得ることができる知識や持ち得る感覚はどれくらいあるだろうか。もちろん、得られないものの方が総体としては多いだろう。
書くという行為は、その「もち得ていない知識や意識」を照らし出してしまう。

極めて用心深く振る舞えば、かろうじて「無知の知」までは書くことができる。知っていることだけをかける巧者もいる。しかし多くの場合、人は自分が「何を書いたか」に気がつかない。

これは別に二元論の話ではない。二元論とは、コンピュータにとっての0と1のように、そのどちらかしか存在しない地平の事だ。つまり0でなければ1。しかし人間というのはどちらかというとzero some にできている。どちらか一方、もしくは双方にグラデーションが生じうる、条件と多様性の世界にある。つまり書かなかったことにも「自分の中にあるがあえて書かなかったこと」と「そこにあることを失念または知らなかったこと」と「全くなかったこと」くらいは、一般に生じうるのだ。

その区別が読者に読み取れるかはあくまでも記述者の力量による。(まあと読解者の力量にも依るのだが)

つまり書くという行為は現時点での本人の力量を如実に映し出す。

であるが故に、おそらく人間は書くことで己を知り、事物を知り、世界の中に位置づくことができるのだ。

これ以上畏れるべき行為が他にあろうか。

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