見出し画像

若いということの価値

学習院の謝辞がいい感じに若気のイタリズムで、ああ春ですね、と思う今日この頃。
その内容を、最近話題の若手研究者が結構な勢いで批判していて。その内容が、知や学や社会という意味ではすごく同意できるものではありつつ、考えてしまう面も多くて、この文を書いている。
結局、自分より物を知らない人を批判するのは、とても簡単なんだけれど、それが無知の断罪というかたちをとってしまっては、誰も言葉を発しなくなってしまうんだよ。とも思うのだ。
気持ちはすごくわかる。半端な知識で適当なことを公表できる立場の人ってマジでイラッとくるし。世の中それを称揚するレベルの人も多くて、憂えてしまう気持ちには本当に共感する。でも、成長の止まった人が同調するからって、伸びてる途中の人の若さを止めていいのか?と言えばそうでもない。
若さってある意味、生まれながらの権利なんだと思うんだ。美化するつもりはないけれど、間違うことが正当化される貴重な機会だから。

専門家が如何に繊細に情報を扱っているかも知識としては知ってる。
そして、勉強不足を無自覚のまま←ここ重要 物言うのってばかにしか見えないのは確か。

でもそれって、自分だってめっちゃそうだよね。自分の世界は自分が見えている範囲でしかない。

そういう意味では、研究者の彼女もきっとまだ未熟で、卒業生の彼女にそのまま発表させた学習院の先生方の懐の広さは、教育者としては、ある意味正しい。だって、あの年頃でこういうかたちで自分を誇りたい子(そして誇る権利のある子)に作文指導が意味がないのは、文を読めばわかるからね。
卒業式で自分を誇るくらいさせてやればいいんだよ。10年後に赤面するのはその人だけなんだし。だからこそ恐れずにその時の自分を誇れる若さって凄く貴重。
ただし、まあ、内容的に強者のリベラリズムすぎて、「この子なに勉強してきたんだろ」って気持ちになってしまったのも確かなので、ちゃんと怒ってあげる方の先生も、偉いなって思う。

まあ、つまり、無智無学を恥じるのは自分のためだけで十分だなと、そういう境地にサクッと至りたいものだと思うのです。
午前2時にお布団の中で悶えるのは自分のことだけでいい。でもできる限り知に接し続けたい。そしてその時の自分を誇り、恥じたい。
そういう大人にわたしはなりたいなあ、という春の所感。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?