音楽と人生の交わりについて

わたしはほとんど音楽を聴かない。
現代において音楽が「歌」に強く結びついているせいもあると思う。同世代以降の「歌」は言葉への共感と音の心地よさが両立するということがとても珍しかったように思う。大衆音楽、スターダム的なシステムによって、エゴと切り離せない事も大きい気がする。情報に対して時間が足りなすぎて、接するものが減っているせいもあるかもしれない。
一方、幼い頃、習い事というものの苦痛さに負けて大した素養も身につかなかったせいで、言葉のない純粋な音についてはお金と時間を使ってまで味わうほどの嗜好性が育たなかった。それでも好きな部分はそのうち深掘りしたいと思っているけれど…。

まあそんなわけでわたしが数を聴いた音楽というものはそもそもとても範囲が狭いし、少数を除いて、ほぼ全曲聴いてるなんて言える歌手や演奏者はだいたい身近だった人と結びついている。
例えば母と中島みゆき、父とコルトレーン、姉とドリカム、恋人とサザン、ブエナビスタソシアルクラブ、友達とベン・フォールズ…そんな感じだ。どうでもいいけど、ラインアップが心底団塊ジュニアだ。こっぱずかしいもんだね。

閑話休題。
そのこと(人と結びついていること)自体は悪いことだとは思わないけれど、ある曲を聴くと強烈に思い出す視覚的な思い出があるというのはなんだか残酷だなと思う。
わたしの記憶の中で従属節になってしまった物事たち。傷ついたり歓喜したことのすべてが象徴されるということ。

それを残酷だと思うこと自体が、それらが未消化であることを示していて、それは自分がまだ消え残っている或いは一生解消されない澱を身体の底に沈めているという告白に他ならない。

わたしはこの後の人生でも、こんなことを繰り返していくのだろうか?
あまりピンとは来ない。
いまは幼い頃のような付き合い方ではわたしのまわりには人がいないし、強く惹かれる音楽にも新しく出会わないから。

それはそれで寂しいことかもしれない。
人生は相変わらず残酷だけれど、わたしはそれを受け流していける、ということだから。
身に刻むほどの感情には、滅多に出会わなくなっているのだから。

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