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片付けるってなんなの?をついに理解した話

もう本当に小さい頃からわたしは「お片付け」ができない、いわゆる『片付けられない女』でした。
会社とか幼稚園とか公共の場だとできるんですけれど、自分の周りは無理。
正直、外でできるのは外面(そとづら)がいいだけだと思ってました。←酷い物言い
ところが、一昨年あたりから徐々に片付けられるようになってきたんですよこれが。

初めは流行りの断捨離をやってみたんですが、意外と捨てられない。捨てていいものって少ない。でも世の中の断捨離基準だと捨てるべき。でも嫌。
埒があかないので「捨てるべきもの箱」を作って、そこに入れて気がすむまで放置してみました。
断捨離基準では捨てるべきな捨てられないものが新たにできたら、たまに中をみて、捨てられるものを捨て、新入りを追加するのです。
相変わらずとっ散らかってますけど、散乱してるよりはマシなわけです。
じゃあ、それでも捨てられないものはどうするのか?
そんなに捨てられないなら、それってわたしの心情としては日常に復帰させてもいいのでは

で、ふと腑に落ちたのですが、片付けるって要するに「そのものの居場所を用意すること」なんですよね。捨てるべきものすら容器があればそこにあっていいんですから。

確かに言われたことがあります。「まずはそのものの置き場を決めろ」とか。でもその時は意味がわかってなくて。もちろん、「床に転がっている」と「引き出しに入っている」の違いは邪魔かどうかだとわかりますが、踏んづけたりする危険があったり他人に迷惑かけないなら、必要なときにすぐ取り出せるなら、それは管理できているのとどう違うのでしょうか。場所を把握していれば、どこにあってもいいではないですか?

でも、一方で自分の巣を作るという行為は生活全体の自分化とその自分の管理なのです。定位置を用意するというのは、つまりそれがどれくらい自分に必要なのかの目安になると同時に、ストックとしてどれくらい量があるかなどの管理の視点が入るわけです。消耗品は特に。もちろん居心地の良さなどという点でも、必要なとき以外はそこにない、というのは意味があるわけですが。
つまりは、自分が住んでいる場所にあるものは全て自分の責任範疇なのです。

それがわかると、単に「物をしまうタスク」だった片付けも、自分のお家をどうしたいか、みたいな具体的な要望の一環になってきて、「収納するために棚を増やす」とか「細分化するためには容器がいる」みたいなことを自分で決められるようになりました。

そもそも自分の人生を自分が管理している実感が薄かったので、なんというか、それなりにやってればいいだろくらいに思っていたんじゃないかと思います。てきとーにやってたわけです。他人のルールに従うのはとても簡単だけれど、ルールを作るのが自分だという自覚がない人(わたし)のところでは、それはもうアナーキーにならざるを得ない。必然です。
もともと自分で買った本とかアクセサリーとか、比較的収納のありようが明確で愛着のあるものは昔から管理できていたので、端的に「本当いうとそこにある必要とか分からない愛着のないもの」を管理しようという気がなかったのだと思います。「Belongings」の観点で意味がないものというか…。もっと極端にいうと自分の生活が自分に所属している気がしていなかったなと思います。だから自己管理が存在しない。
わたしは一昨年くらいから自分の人生を生きている感じがし始めているのですが、それに連れて、なんだか急に、1週間の中に生活の要素が濃くなってきました。

まあなので、片付けられないってもしかすると自分の人生に参加できてないだけなのかもしれないです。
片付けられないってすごい悪みたく言われますけれど、できない自分を責める前に、そこに「自分がどうしたいと思っているかが無いかも知れない」と疑ってみて損はないですよ、というお話でした。

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