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小人が自分に理想を持つこと

年末に友人が出した本「女は、髪と、生きていく」を年末に読了して、これだけは休み中にしようと思ったこと。それは

どう思われたいか20の形容を書き出す

だった。

実は本を読む以前から彼女はいろんなところでこのことを言っていたので、何となく考えてみたりしていたのだけれど、どうしてもやりたくなくて、ちょっと考えてはすぐにやめていた。それは、わたしにとっては、なんだかとても怖いことだったので。

しかし今回は心に決めていたこともあって、数日かけてもやってみた。
やはりすごくすごく大変だった。
そもそも、「どう思われたい」と「どうなりたい」は全く別物だし、それを見た目から表現したいかもまた、論点が違う。
要するに「どういう印象を与えたいか」だけでは、自己イメージが希薄なわたしは20も言葉が出てこない。というようなことを言っていると根本的にさらに難易度が上がるのだが、そこはわたしだしね。
ひとまずつべこべ言わずにやる、それがまず肝要。

そして松の内中、自分がウンウン唸りながら書き出した形容を、たまに引っ張り出して眺めてみた。これはなんなんだろう。わたしはどうなるんだろう?

しばらくすると、その中から3つを選び出すことができるようになっていた(というか、結局大枠で3種類くらいだった)。そしてその内容は、別に何も新しくはないけれど、たぶん、わたしがずっと持っている要素の中でも、もっと欲しかったり、けなされたことがあったり、困っていることの裏返しである気がしてきた。

例えば「品がいい」は、「すましてる」とか「お上品ぶって」とか言われた反動でどんどん手放したもの、じゃないだろうか。「Outstanding」は「Odd one Out」である立ち位置の最上級の誉め言葉だ。「感じのいい」も人生で一番持っていたい要素だと思う。嫌なものも一度は笑って消化する強靭なマインドと平静さ。

つまり「こう思われたい」自分というのは、「こうならいいのに」という世界の延長、または受け入れられている自分、世界と調和した自分という仮想のことなのだ。

であるならば、まずは、今の自分より少し先の、少し望む方向に変化した自分、というものを想定することが、自分を「そこ」に導くのだ。それは言いかえるならば、自分に理想を持つ、なのかもしれない。
要するに、自分が理想に近づくとき、世界は今と同様、自分に寄り添った物であるはずで、その分、自分に優しいのではないだろうか?
そう思い至った時、吉野朔実氏の「ジュリエットの卵」を思い出した。
もしかしたら蛍は最後まで至らなかったけれど、理想を追求した時、生まれなおした彼らの前には永遠の野原が広がるのかもしれない(そして永遠の野原には至らなかったとしたってこの地はやっぱり転げ回って笑うふたりの安住の地なのかもしれない)。

わたしは今まで、理想の世界は追い求めても、自分に理想を持ったことがないと思っていた。しかし加えていえば、わたしはこの歳までのわたしを到底、容認できなくて、一人でもがいて、でもまだどうすればいいのかわからない。
それってすなわち、自分に甘すぎるから未だ曖昧模糊としていても、理想があるって事じゃない?

自分を正すこと。軌道を修正すること。できるできないじゃなくてやること。そのための北極星が「自分に理想をもつこと」ならば、わたしはそれをしたい。

なんなら14歳で済ますべきようなことをつらつら書いてきたが、そんなんでも、わたしには直間問わずいつも助けてくれる友人たちがいて、盲目的なケモノの過去には迷惑もたくさん散らばっているけれど、優しい人たちも連れてきている。究極的ではない意味では全然独りではない。そのことのチカラをしみじみと感じる。

わたしは結局、世界を良くする何かがしたいだけの平凡でちっぽけな存在だ。でももしかしたら、自分に対する理想や自分の求める理想という北極星に向かう事で、何かができるのかも。
独りでは成し遂げられない事も、友だちが同じように生きていることを知っている今なら、できる可能性はあるのでは?

そんな、今の現実にはなんの役にも立たないけれど、自分が立っているためには必要なことを考えた、年末年始でした。

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