言葉へのこだわりのお話

自分が言葉というものにかなりこだわる、そしてそれが故にこだわりから反する用法をされるとパニックになるきらいがあることは自覚していますが、パニックになった時にそれを態度に出さず平常でいるように見せかけることに日々エネルギーを注ぎまくっていて、それに辟易しているのが常です。

そもそもぼくが「言葉」に対してどんなふうにこだわっているのかというと、

ぼくは、社会生活の中に限っては、言葉を「コミュニケーションのため」の道具として、言葉のミームとしての側面に注目しながら、できるだけ解釈の余地がないように使う、

ということです。

しかしながらその反面、ぼくはこのような「言葉」の使い方が嫌いです。
なぜか、例えば、ある新規の事象について人が語るとする、その「言葉」は、それ以前の過去の事象を表した、自分のもつ語彙の「言葉」を用いて語られることがほとんどで、
つまり、新規の事象がそれ以前の過去の事象と(同じ表現を用いられることによって)同じ水準に位置づけられることがほとんどで、その新規の事象がもつ特有性、他の事象との質や感覚などの違いを表現することに失敗していると思うのです。

ゆえに、ぼくは、自分が肌で感じる新規の事象たちの特有の感覚について、それらが真に表現されることがないままいることが、悲しいと思うからです。
しかし、しかし、これらの感覚は、言わば「自分語」のような言葉によってしか「名づける」ことができないのかもしれないと思います。

ところで、ぼくがどんな時にパニックになるかというと、人が(無意識の場合がほとんどであると思われるが)ぼくと「コミュニケーション」中であるにもかかわらず、その人が「名付けた」「自分語」によってものを語ったと気づいた時です。

例えば、「今から○○するよ」と言われたのに、○○し始める前に相手がトイレに行くなど別のアクションを起こした場合などです。
この場合相手は「未来の計画」について、「自分語」で細部を省き、今後起こすアクションについて「今から○○するよ」というざっくりとした「名付け」を行っているのです。

ぼくはこれに気づくので、その度に「言ってることと違う」「ぼくとコミュニケーション中なのに勝手に名付けを行った言葉を使うことでぼくを置いてけぼりにした」と思ってパニックになりつつ、しかし「これは相手が(無意識に)『名付け』をしたんだな」と推測し することで、どうにか平常の態度を保っているのです。

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