無常、無我と禅の悟り
◇無常、無我と禅の悟り◇
つい最近、ユーチューブの動画リストに自動的に挙がってきた動画を観ていると、その中に禅の覚者の動画があり、それについて思ったことを書いてみようと思います。
いつものように偉そうな感じで恐縮ですがw
禅者も、無常、無我を悟るようです。
しかし、まだ足りないのです。
禅系の悟りの型に嵌ってしまうのか、禅の意識の使い方の限界なのか、その先の進展がなく、そこに留まってしまうようです。
何が足りないのか言いますと、それは「私」への追及です。
ことが起こっているという気づきのところで止まってしまっていて、私への振り返りが無いのです。
禅でも自覚でも、私が無いことを悟るときは、自我の要素である何かを認識する認識主体が無いことに関する気づきや理解を伴います。
また、悟りに伴って自我感覚の急激な欠落感や質的な変化も生じます。
ここがややこしいところであり、難しいところで、無我を悟った者がそこで留まってしまったり、嵌ってしまうのも無理は無いのですが。
禅者は、そもそも私が無いのだから、振り返りようがないと言うでしょう。
しかし、本当にそれで終わりにしていいのでしょうか。
私は無いということで、片づけてしまっていいのでしょうか。
認識や意が起こらないと言うかもしれませんが、本当にそうでしょうか。
確認が足りないのです。
追及が甘いのです。
認識が起こらなくなるということがどういうことかを、もっとしっかりと追及して頂きたいと思うのです。
認識が起こらないなんてことは、軽はずみ言える筈がないのです。
本当に意が起こっていないか、もっとしっかりと確認して頂きたいのです。
確かに、無我の悟りの観点からは、意は有りません。
しかし、無我を悟ってもなお、相変わらず自分の手を動かしているのはあなた自身、あなたの自我ではありませんか?
本当に、ことが起こっているということで済ませてしまっていいのでしょうか。
私を振り返ることができれば、次の行程へ繋がっていきます。
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