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私が「自分自身」で演技しない理由

わたしが「自分自身」で役をやらない理由
「なりきる」アプローチをしない理由を
この前から書いております。

役を近づけるとか、役を下ろすとか
役になりきるとか、

お芝居・演技には本当に様々なアプローチがあります。

役者さん本人にハマるかハマらないかもありますが、
その場でOKを出す人がOKなら、プロセスは何でも良いよね!と思っているタイプです。

さて、
とある音響監督さんにお会いし、お話する機会があった時、

その方は「役になりきる」というアプローチを採用される方で

私のアプローチを話す場面がありました。

「でもそれは、昔から演技の本とかでメソッドで出ているものでしょ?」
「ハートから演じたら、役者さんはなりきるになるんじゃない?」

とおっしゃられました。

その方は勉強熱心な方で
役者さんが好きだし、お芝居が大好きだし
自分で演技の本を読んだりお芝居のワークショップに参加の経験もある方です。

自分の採用しているやり方が

すでに発行されている本に載っている程のメソッドならば
やはり昔からこのアプローチは1つ確立されていて
とても使えるものなんだなぁ。と思いました。
(先人が本にして出している…有難い話です…。)

ハートから演じたら
というのは
私には???な意見でした。

ハートから演じるってなんだろう?
タイプの違う方とお話しすると、
これが面白いんですよね。

この人はどう考えているんだろう
きっと「感情」とか「心から」っていうのを
何より大切にされるタイプの方なんだろうなぁ。

未だにハートから演じるは
?カテゴリーに入ったままですが
そういうタイプの方にお会いしたら、お話を聞いてみたい。

つまりそれって、どういうことなのか。

でも企業秘密だろうなー、なんて思いつつ。

「なりきるアプローチをしないのは、ダメだしをされたら凹むから?」

というご質問もいただきました。
すごく良い質問ですよね!

なりきるだったら、
間接的ではあるけど
自分が否定された気持ちになるから、ということを
分かっている(もしくは把握)からこそ出る意見だなぁと思いました。

ダメ出しにヘコむ必要は無いけど、
凹む人が大半ではないか。と思っています。
なりきるアプローチをしているなら、それは尚更ではないでしょうか。

ダメ出しの言い方によりますが、
ダメ出しというより
ディレクションのはずなので(※場合によりますよ!)、
創る為の意見を言ってくださってるだけなんですよね。
要望を伝えてくれてるだけ。

ただ、
私の周りには
ダメ出し凹まないなりきるタイプの役者さんも居れば、
ダメ出しめっちゃヘコむ~!という理論派な役者さんもいます。

私のことに話しを戻します。

役になりきってやったとして
私の場合は役と自分自身の距離感がバグってしまうので
客観的な意見を取り入れづらくなってしまう
大変不器用な人間です。

あくまで、その役と私は他人なので、
しっかり自分と約の心の距離をとったまま演技もお芝居もします。

「このキャラはこういう喋り方をするだろう」
「こういう風に考えるだろう」

と、仮決定のまま確定して進めます。
そして、ディレクションが入ったら都度修正。

その役(キャラ)は、
中の人になるわたしの事は知らぬ存ぜぬです。 
当たり前のことですが、⬆が私にとっては大きな気づきだったのです。

私の場合
なりきってやったら、
そのダメ出しやディレクションを
客観的にとらえることが難しくなるというデメリットが出てしまって
折角の要望を理解するのに時間がかかってしまいます。

今までのセリフやストーリーの流れがあって
そこまで感じた気持ちや思いが
区切れるならいいけど
繋がってるからその表現になったものを「違います」と言われた時、

役になりきっているなら中半オートマチックなわけだから

何が違うの?私から出た思いなのに??

みたくなるんですね。
⬆私の場合は、です!

(これを生意気だったり尊大だったりふてぶてしい奴っていうんだと思います。)

なので私、なるきるやり方、まるで向いてないんです。

キャラクターは私のものじゃなくて、
作者さま(神)のもの、
キャラクターに携わられた皆さまのもの、
ユーザー様のもの…

一旦をになわせていただいている、ちょっとだけ、私のものでもある。
でも本当にちょっとだけ。

このキャラはわたしのものだ!私自身だ!と思ってしまったら
キャラとキャラに関わる皆様に失礼だなぁと思うタイプなので

声をあてることを
一所懸命していこうと思います。

西瓜

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