20240607 祖父

6月2日の深夜、祖父が他界した。
享年84歳だった。ちょうど1か月前くらいに病気で入院して、自宅療養に切り替えて2週間、5月を生き延びて息を引き取った。

もう長くないかもしれない。母から告げられたのは退院前のことだった。喪服を用意しなければとか、最後に会いに行こうとかいうことを語る母を前に、祖父の死を自然と受け入れる姿勢が出来上がった。

生前の祖父を最後に目にしたとき、祖父は鼻に管を通して、息苦しそうに呼吸をしていた。それでも私を私だと理解して、言葉を発することが出来ないまま、じっと見つめていた。祖父の腕は肉が殆どなくなっていて、痛々しい痣がいくつもあった。白血病に罹っていたのだ。

そんな様子の祖父を見て、祖父に迫りくる死を確かに見た。怖くなった。反対に、両親は「今日は調子よさそうだったね」と言っていた。皆、祖父の死が近いことは確かに認識していた。

祖父の死に顔は安らかだった。病に苦しんで、呼吸を荒くしていたのが嘘みたいに、静かで、冷たかった。父は祖父の頬を撫でながら、「起きろよ父ちゃん」と言った。ようやく死を実感した瞬間だった。

告別式で中央に飾られた祖父の遺影は、元気だったころの姿だった。私の中にある祖父はずっとあの姿で、気さくに「よう!」と声を掛けてくる、頑固で口の悪い、真面目な人だった。祖父の遺影の周りには手向けの花が飾られていて、私たち孫から贈ったものもそこに飾られていた。

喪主である父は、御礼の言葉を告げるときに涙で声をにじませた。自宅療養に切り替えて、深夜まで介護をしていたときに書いたものだったらしい。別れを覚悟して、死を意識していたのに、それでも別れはどうしようもなく寂しいのだと思う。

無くなってしまった川口駅のそごうの屋上で、七五三で着飾った私を抱きかかえた祖父の写真が脳裏に思い浮かんだ。ピアノの発表会で花束をくれた祖父母の姿も、先に旅立ってしまった柴犬のタロウを散歩する姿も、今も鮮やかに思い出せる。

祖父と過ごした時間は、それほど多かったわけでもない。頑固で口下手で、典型的な昭和の人だった祖父からの問いかけに、わずらわしさを感じたこともあった。手放しで大好きと言えるほど、祖父に良い感情だけ向けていたわけでもないのだ。死の間際に居る祖父に、頑張れのひとつも言えなかったのだから。

けれど、今の私を構成する要素に、確かに祖父の存在は刻まれている。祖父と過ごした穏やかな時間が、昭和の面影が強烈に残る家で過ごした時間が、全部あったから私が出来上がる。

だから寂しい。ジジにまた、「よう!」って声を掛けてほしかった。私のことを「おめえ」って呼んで、私の話と姉の話を勘違いしているジジに、違うよって笑いながら指摘したかったよ。最近はあんまり会いに行けなくてごめんね。空の上でご兄弟や愛犬たちと会えているといいな。



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