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【『藝人春秋』書評】「芸の道で鍛えられた最強のルポライター」 BYノンフィクション作家・最相 葉月
『BOOK asahi.com 本の達人』2013年3月15日より
『藝人春秋』は『お笑い 男の星座』『お笑い 男の星座2』に続く、お笑いコンビ・浅草キッドの一人、水道橋博士の芸人ルポルタージュ第3作である。
登場する人物は、そのまんま東(東国原英夫)、甲本ヒロト、石倉三郎、古舘伊知郎、苫米地英人、テリー伊藤、ポール牧、北野武、松本人志、稲川淳二ら16人。2000年から2010年に、雑誌「笑芸人」や「ブルータス」に書かれたものを中心にまとめ、各章の末尾には「その後のはなし」として後日談が新たに書き下ろされている。
この本は、昨年のはじめに電子書籍が出ていたので既読だった。
期待違わず、おもしろく味わい深い芸人ルポを心ゆくまで堪能できた。
本稿を書こうとして年末に出た単行本と新しい電子書籍を読んでみたところ、驚いた。ずいぶん変わっていたからだ。
登場人物の取捨選択が行われただけではない。
一度書いた文章を練り直すだけでも気が重いものなのに、後日談を添え、あとがきにまで人物ルポを織り込むのは、たんにサービス精神からだけではないだろう。
納得のいくまでていねいな本づくりをしたいという想い。
背水の陣で何かに挑もうとする、悲壮感も漂っている。
逝去から間もない児玉清との思い出について書かれたあとがきを読み終えたとき、鳥肌がたった。
文藝春秋の「本の話」ウェブ版によると「12月に上梓した『藝人春秋』はボクが50歳になったことを記念し芸人を「引退」する覚悟で書き始めました。」(「自著を語る」)という。博士が、やはり、と思った。
水道橋博士の目がずっと気になっていた。
お笑いの舞台に立っていても、バラエティ番組に出演していても、著作を読んでいても、いつも同じ目をしている。
その目がどんな目なのかというと、たとえば、本書の「石倉三郎」の章で確かめることができる。
ビートたけしの修業時代を描いたドラマ『浅草キッドの「浅草キッド」』収録の待ち時間、相方の玉袋筋太郎と石倉三郎が楽しそうに話し込んでいる横で、水道橋博士が台本を読み込んでいるくだりがある。
水道橋博士は自らの師匠であるたけしを、玉袋はたけしと浅草フランス座で寝食を共にする寡黙な文学青年・井上雅義を、石倉はたけしが敬愛する浅草時代の師匠・深見千三郎を演じている。
水道橋博士は「現存する"日本で最も有名な師匠"」を演じなければならない重圧に押しつぶされそうになり、タップダンスの特訓もあって心身共に限界に近づいている。
深見が芸人として腕を上げていくたけしに目をかけ、作家志望の井上はそれを遠巻きに眺めている。
ドラマは、そんなほろ苦い井上の想いが静かに描かれているという設定だった。ところが台本とは裏腹に、台詞が少なくスケジュールに余裕のある玉袋は終始リラックスして撮影を楽しんでいる。
たけしとは浅草時代の芸人仲間である石倉と玉袋の馬鹿話は、やがて芸論になり、ビートたけし論になる。
「師匠、どうやったって僕たち、殿みたいにはなれないですよ! 殿は本当に凄いです……」
「いいか、玉ぁ! タケちゃんってのは、たったひとりなんだよ! どれだけ憧れようが、タケちゃんにはなれねぇんだよ! そこをわきまえて芸人はやらなくちゃいけないんだよぉ。俺は芸人でも、自分をわきまえない奴ってのが、だいっ嫌いなんだよな」
( ──たけしと深見が楽しそうにやりあう姿を、遠くから眺める井上)。
そんなト書きのシーンが続く台本を読み込んでいる自分の目の前で楽しそうにやり合っている二人を見て、水道橋博士は内心つぶやく。
〈ボクがたけし役のはずなのに、現場では、まるでボクが井上雅義のようだった〉。
この目、である。週刊ポストで1150回以上続いている「ビートたけしの21世紀毒談」の読者であれば、この長期連載がずっと「構成/井上雅義」の名義で書かれていることに気づいているだろう。
「井上雅義のようだった」というのは、だから、"目撃者"ということだ。
そして、その目は、ビートたけしになれないことをわきまえている者の目である。
諦観しているのではない。
場に没入できないのでもない。
冷ややかなわけでもない。
頭の右斜め後ろあたりにもう一人の自分がいて、いつも自分を見ている。前からも後ろからも、上からも下からも自分を見ている。
そういうふうにしか生きられない自分を少し持てあましているような目だ。
自分を知り、現実という「この世」と芸能界という「あの世」をせわしく振り子のように往還することを厭わない。
そんな目をもっていたから、水道橋博士は自ずとルポライターになったのだと思う。
遅かれ早かれ、目撃者側の仕事人に鞍替えする人ではないかと感じていたが、では、水道橋博士自身はいつ頃から自分の目を意識していたのだろう。
「変装免許証事件」で謹慎中、高田文夫に呼ばれた鍋の席で古舘伊知郎に会ったときのエピソードがある。
子どもの頃からプロレスの大ファンだったから質問には事欠かない。
本人も忘れていた実況を再現してみせて古舘の関心を引きかけた時、水道橋博士は不意に話題を変えてこんな質問をする。
「『おしゃれカンケイ』で手紙を読むとき、古舘さんはどうしてあんなに冷静に読めるんですか?」
すると、古舘は「細い目を一度自覚的に大きく開くと顔を作り直して」こう答える。
「……博士ぇ、オレはね『人より心が冷たい』んだよ。でも、あれにはプロの企業秘密もある。うん。ある方法がね。それはまぁ、得意技は人には語らないし教えないけどさ」
水道橋博士が「お笑いルポライター」を自称するずっと前のやりとりだ。
読者がここで知りたいのは手紙を冷静に読むための技ではない。
技は教えないといわれてすかされたようにみえて、古舘がすでに水道橋博士の質問に答えていることは明白だろう。
相手の中にすでにあるものが自ずと流れ出てくる、そのぎりぎり直前のタイミングを察知し、瞬時にボタンを押す。
天性のインタビュアとしか思えない質問力の冴えを垣間見る瞬間である。
各人の人柄や醸し出す雰囲気を表す一言も「技あり」「一本」の連続だ。
「『芸人という病』の臨床例」(そのまんま東)。
「何処にでも草鞋が脱げるタイプ」(三又又三)。
「崖っぷちから転落しても、どん底でも踊っている」(堀江貴文)。
「二人の共通項は枚挙に暇が無いが、断じて言えるのは、二人共に、自分の才能以外には誰の影響も受けていないということだ」(北野武と松本人志)……等々。
私たちがおぼろげに感じていることを、鋭い言葉や比喩を駆使して、本当の現実として示してみせる。
これぞ、芸の道で鍛えた文学の力、と唸ってしまう。
それにしても、本書に登場する人々はみな両手で耳を塞ぎたくなるほどうるさく過剰である。
もちろん、芸人はみな確信犯だが、天然過剰がテレビで増幅された人たちもいる。
水道橋博士はそのどちらも愛する。
自分が決してたどりつけない世界をもつ者として。
ただ、後日談「その後のはなし」を読んでいると、哀切さが胸に迫る。
湯浅卓や苫米地英人は、結局よくわからない人のままテレビからいなくなった。古舘伊知郎やテリー伊藤のような異能の人も、今では夜の報道番組と朝のバラエティ番組という、お茶の間ターゲットの枠でキバを抜かれたライオンのようにおとなしく収まっている。
ポール牧は自ら死を選び、稲川淳二は障害をもつわが子のためにお笑いをやめる決意をした。
彼らを消費し尽くした「私」は、良心の呵責に苛まれつつ、それでもテレビという快楽を手放すことができない。
欲深く、身勝手で、気まぐれな視聴者でごめん、と頭を下げたその瞬間、新しい刺激を求めてリモコンに手が伸びている。
「この世」と「あの世」の狭間で引き裂かれている彼らのもう一つの顔に思いを馳せることもなく……。
こんな残酷な者どもに食い尽くされぬようにするには、過剰さを苦にしない鋼の心臓が必要なのだろう。
でも、たぶん、みんな、やさしすぎる。
芸能界を描かせたら、私の中で、水道橋博士は現代最強のルポライターとなった。
最強なのは、彼らのようにはなれないという引き算から始まって、頂に辿り着こうともがき、不断の努力を続けているから。
水道橋博士がもう一人の師と仰ぐルポライター、竹中労は、芸能界の支配構造に迫ったルポ『タレント帝国』以降、芸能記事を書かなくなった。
願わくば、水道橋博士版『タレント帝国』で平成の芸能界に斬り込み、師の無念を晴らしていただきたい。
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『藝人春秋①』文庫版
(ボーナストラック)
・『2013年の有吉弘行』
(文庫解説)
・オードリー・若林正恭
押印サイン本をおまけ
(変装免許証ブロマイドor缶バッチor江口寿史シール)
付きです。
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