見出し画像

追悼・竹中労② 年表・水道橋博士と竹中労と。

 本日、2021年5月19日は、ボクが私淑する反骨のルポライター・竹中労の命日です。

 没後、ちょうど30年になります。

 ボクが主宰するメールマガジン『メルマ旬報』の執筆者の相沢直くんが、
ボクと竹中労の日記の記述を時系列でまとめてくれたので、ここに無料公開しておきたいと思います。

 初めてその名前を知る人、また、今、竹中労が足らないと思う方。老若男女を問わず、是非、読んでください。

追悼企画の②です。
 ①はこちら

相沢直・の前説。

 水道橋博士がノンフィクションの沼に嵌るきっかけとなったのが、竹中労という伝説的なルポライターの存在だ。今日に至るまでことあるごとに「人は無力だから群れるのではなく、群れるから無力なのだ」という言葉を引用するなど強い影響を受けており、書き手としての水道橋博士の背骨を作った一人だと言って間違いはないだろう。

 では竹中労とは水道橋博士にとってどのような存在なのか。その辺りを理解すべく、水道橋博士の年表と過去の日記から、「竹中労」に関する記述を抽出していったところ、1万8000字ほどになってしまった。おまけとしてはちょっとどうかと思うような分量ではあるが、特に削る必要も見いだせないため、そのままここに写す。以下、「水道橋博士年表」及び水道橋博士の日記から、竹中労に関する記述の抜粋です。

(以下、水道橋博士年表より抜粋)

1979年(17歳)
▼岡山県・倉敷の映画館「千秋座」でアルバイトを始める。アルバイトを始めた当初は知らなかったが、この映画館を舞台にしたエロ映画上映事件スキャンダルがあったことを竹中労のルポで知り、個人的に星座を感じる。映画監督の吉村公三郎(「源氏物語」など)を元議員や地元の有力者が囲んでブルーフィルムを上映したという事件。地方紙で小さく取り上げたこの記事を竹中労がゴシップとして大衆雑誌に持ち込み「倉敷エロ映画鑑賞事件」として取り上げられた。
▼このころは「キネマ旬報」を毎号購入して熟読していた。ルポライター・竹中労との出会いも、この雑誌の連載。自作の映画評も送っており「ビッグ・ウェンズデー」「十八歳、海へ」について書いた「青春の海」という評は「キネマ旬報」79年11月上旬号の「キネ旬ロビーエッセー」に自宅の住所付きで掲載された。この一文により、周囲の大人たちには「この子は物書きになるのだろう」と思われた。

1981年(19歳)
▼7月、竹中労「ルポ・ライター事始」出版。本屋で背表紙から自分を呼ぶ声が聞こえたと思うほど運命的な本との出会いだった。多くのフレーズや言葉の意味を調べて「竹中労的文章」と題したノートに書きつけている。「人は無力だから群れるのではなく、群れるから無力なのだ」の一節に特に感銘を受ける。「キネマ旬報」の連載「日本映画縦断」で名前は知っていたが、ルポライターとしての竹中労をここで認識。竹中労のルポルタージュというスタイル、その思想には大きく影響を受け、梶原一騎への傾倒と相俟って、後年、TV Brosで連載する「お笑い男の星座」シリーズへと繋がっていく。とは言え、「自分のような対人恐怖で内向きのオナニストが堂々と正義を語れるのか?」という自問に対して答えを出すことはできなかった。

1990年(28歳)
▼10月25日・ANNのビートたけしの代役を爆笑問題が務める。放送中にニッポン放送へ単身殴り込み、終了5分前にスタジオに乱入する(単身になったのは当時、玉袋筋太郎は交通事故で入院中だったため)。この事件をきっかけとして、浅草キッドと爆笑問題のあいだにいわゆる「遺恨」が生まれたとされる。なおあまり語られていないが、この日の日中「浅草キッドのすっぽんぽん」収録にて、水道橋博士は竹中労と人生最初で最後の対面を果たしている。当日の本人のメモによると、「17:30には竹中氏、スタジオ入りのため即収録、あがりでメロメロ。実に失敗。後半、盛り返す」とのこと。

2011年(49歳)
▼7月20日、ムック「竹中労 没後20年・反骨のルポライター」(河出書房新社)発売。インタビューが掲載。このときにインタビューを担当したのが、後に「紋切り型社会」「芸能人寛容論」などを著す武田砂鉄。

2016年(54歳)
▼10月15日、山梨県甲府市の「桜座」にて「竹中労没後25年 今ふたたび」開催。樹木希林から直々に電話で指名され、急遽飛び入りでトークショーに登壇。この日だけ偶然、スケジュールが空いていた。竹中労に呼ばれたと解釈。「博士に竹中労の評伝を残してほしい!」との樹木希林の言葉に、鈴木邦男が「竹中労を継ぐのは君しかいない!」とアジテート。「いつかやってみたい」と返す。打ち上げ、樹木希林、東京から駆けつけた、武田砂鉄と共に話し込む。


(以下、水道橋博士の日記より抜粋)

▼1997年8月22日

「それでもライターになって欲しい人のためのブックガイド」
 (太田出版)読了。
 田村章・中森明夫・山崎浩一著。2年前に出版されていた本なのだが、
 「ビートたけし」の前に「竹中労」があったボクにとっては、
 心を揺さぶる、かっちょいいフレーズ連発。今のような芸人という職業についていなかったとしたら、猛烈に影響されていただろうと思う。若い奴は読め!


▼2001年6月4日

『ダカーポ』に、竹中労についてのアンケート、書面で。


▼2001年6月19日

俺は一人で新宿歌舞伎町へ。 
19時、新宿ロフトプラスワン。
「個人情報保護法に反対する集会」

マガジンハウス山田さんに誘われて顔出し。

石丸元章さんを誘ったら、
『俺はそういう会とか運動には、かかわらないから』と。
もちろん俺も“運動”は苦手だ。
しかし、
今日は、使命があるのだ。

控え室のムードがもはや、新宿ゴールデン街。
「突破者」宮崎学さんに挨拶。
宮崎学さん、どうやら選挙に出馬する?みたいだ。
その場合は噂される白川新党からではないのか。
で、そういう場合、10名の候補者選びに余りが出るかも。
と、言う事は、その場合…。
ターザンを推薦してもらえるかも。

文春の浅草キッド担当、目崎さん合流。
「青山正明さんの告別式の帰り」とのこと。

「危ない1号」などでお馴染みの編集者、ライター、
青山さんが一昨日、自殺されたとのことだ。

目崎さんが遺族の方に文春の名刺を渡して挨拶したら、
「うちの息子は、こういう立派な出版社でなく、
 くだらないエロ本に書いていたんでしょ」と言われ、
「いいえ、くだらなくない雑誌で、
 立派な文章を書かれていました、
 私はその文章に影響を受けました」と目崎さんは答えた。

そういうものだ。
そう言えば、
昨日の夜はテレビで「ラリー・フリント」をやっていたのだ。

そしてたまたま隣に座った、
聖教新聞記者と一緒にロフトから見学。

「白川議員の監視ですか?」と聞いたら、
「宮崎学さんのおっかけなんです」と。
「竹中労の大ファンで、今、ダカーポで特集されてるんですけど…」
「あ、それ俺、インタビューに出てますよ」と答えたら、
「実は、私も…」と。


▼2002年1月17日

20時、東京プリンスホテル入り、
『スコラ』連載対談。
百瀬博教さんを迎えて。

新刊『プライドの怪人』を巡るお話。
および、猪木祭りの舞台裏など、
「日本のドン・キング」として興味尽きない話。
さらには、百瀬マニアの俺だけの興味で、いろいろと質問。
終了後、
青山の百瀬博教さんのお宅へ招かれる。
双葉社の渡部記者、合流。
何部屋にも、分散された、
さまざま、コレクションを見せていただくが、
6年間の、獄中の勉強ノートに見入る。
一糸乱れぬ、その筆致。
人生の暗闇のなかで、この集中力と向上心。
今、無邪気に話をする百瀬博教さんと、
同じ人格の持ち主とは思えない。

さらにスコラ編集2名、
百瀬さんの客人2名も合流。
西麻布『キャンティー』、
「たけしの森」の横で食事。
西川きよし師匠、 美川憲一さん、
神田うのらと遭遇。

俺が竹中労さんに生前お会いした話など。
深夜3時帰宅


▼2002年6月24日

六本木ホテルアイビス
『ダヴィンチ』取材。
浅草キッドが選ぶ10冊の本、
現場にいったら、取材者が吉田豪であった。

「取材の必要ないじゃん、
 豪ちゃん記者、好きなこと書いてよ」と。

今でも入手できるもので10冊。
ざっくばらんに選んだもの。

『ケインとアベル』 ジェフリー・アーチャ―
『ただ栄光のために 堀内恒夫伝』海老沢泰久
『アントニオ猪木 自伝』新潮社
『評伝 梶原一騎』斎藤貴夫
『裏本時代』   本橋和弘
『ルポラーター事始』 竹中労
『私、プロレスの味方です。』村松友視
『真説・たけし』 ビートたけし
『すべてのプロレスはショーである』ミスター高橋
『突破者』 宮崎学

なんにも意識していなかったが、
『ケインとアベル』以外は小説ではなかった。
さらに、 タイトルは、豪ちゃんに敬意を表して、
「浅草キッドが男気を卍に固める10冊」 に。


▼2003年9月3日

本日、移動中、マイケル・ムーアのDVD
「マイケル・ムーアの“恐るべき真実”
アホでマヌケなアメリカ白人 大集合! 」
(原題:THE AWFUL TRUTH II/2000製作
/アメリカ=カナダ=イギリス合作)
見て、身震いするほど感動。
『ボウリング・フォー・コロンバイン』
の下敷きになったテレビ番組ではあるが、
あの映画の素材は全部、このなかにある。

放送に携わる人には、皆、ぜひ見て欲しい。

これほど激しいアメリカ批判、
しかもアポなし取材で、
本人の命が狙われないのも不思議であり、
また、こういう人に賞を与えるのも、アメリカなのだ。
日本で同じことをやれば、
単なるクレーマーと扱われ、
生涯アンダーグランドで終わるだろう。
でもやるんだよ。
反骨のルポライター、竹中労を彷彿しながら、
なんて志高い仕事なのかとウットリと興奮してしまう。


▼2004年12月13日

帰宅後、久々の我が家で夕食会。

ノンフィクション作家の木村元彦さん、
「アエラ」の大和久記者。
カミさんの親友のシズと、
旦那さんのディビットのメンバー。

にんじんの辛し明太子合え、
たこのマリネ、肉豆腐、大豆のひじき、
スパムとほうれん草のスパイシー炒め、おくら入り納豆

木村氏一行は、
俺が「ビートたけし」以前、
思春期に最初に影響を受けた人が、
「竹中労」と言うところで、
その観点からの取材依頼があり、今回、初対面。

木村氏は、東欧のサッカーを切り口に、
戦火のユーゴスラビアを取材した、
気鋭のルポライターであり、
元・原一男が主催する疾走プロに在籍していた映画人でもある。

この経歴だけで、逆に俺が話を聞きたくなる。

ディビットも、従軍記者時代、
丁度、同じ時期にユーゴスラビアの戦地を取材しており、
また、来日後は、日本の映画の現場を
フィールドワークしているので話がかみ合うだろうと、
思ってセッティング。

案の定、二人が会うやいなや、ユーゴの現状を巡って激論。
子供が、久々に自分が主役にならない席に戸惑う様子がオモロ。

単身、戦場へ行ける行動力や神経、取材魂は
俺にはないものだけに 興味深い。

その後、木村氏持参のユーゴの地酒、
飲みながらよもやま話。

木村氏は、俺と同じ歳なだけあって、
文化的な共通体験多数。
大和久記者も、また博識。
竹中労、佐野眞一、本田靖春、石原慎太郎論など。

俺も、芸人になってからは、
普段は使わない引き出しを開け、
 気持ちよくトーク。


▼2006年2月15日

9時半、TBS『アサ秘ジャーナル』収録。

二本目。
衆議員会館、公明党・太田昭宏、浮島とも子。

新人議員紹介シリーズ。
3度目の出演になる太田先生による紹介。

太田先生、会うなり、
「君の書いた『本業』読んだよ。感心したね~
 私のホームページに書評書いたから」
と声をかけてくださる。
『お笑い男の星座』のときもそうだったが、
議員の先生で本当に我々の本を読んで、
ちゃんと書評をくださるのは先生が唯一である。

全く知らなかったことだが、
HPを読んで竹中労繋がりなのか、と納得。


▼2006年7月14日

さらに本日放送の『R30』の竹中労特集。
宮崎学さんと共に、
ボクが喋った量の20分の一くらいの出演シーン。

それでも感無量。
自分がタレントとして芸能界に適応できない部分、
俺が俺である理由を俺自身が再確認。

改めて、

うろじより、むろじへ帰る、一休み、
雨ふればふれ、風ふけばふけ

(人生とは現世からあの世へ行くまでの
一休みのようなものだ。
雨が振っても、風が吹いても動じることは無い)

そういう心境になる。


▼2006年7月21日

朝日新聞の朝刊に、『相談室』が、もう掲載。
昨日、直しを入れたばかりなのに。
新聞なのだから当然か。

わしゃあ、坊主か?と思うほど、
生真面目に答えている。

新聞は一日で使命を終えるのと、
字数制限でかなり短くなるので、無修正版を転載しておく。

 質問。

 【大学3年 男性】 
 今、大学で10人程度のゼミに入り勉強しています。
 しかし、他のメンバーのやる気が全くなく、
 皆平気でゼミを休みます。
 先輩に厳しく注意されても態度を改めず、
 私が促しても効果がありませんでした。
 私自身にみんなの信頼がないからかもしれないと思い、
 敬遠されがちな会計係を引き受けたりしましたが、
 殆ど自分の意見を聞いてくれません。
 一時はそういう人達なのかと割り切り、
 人に対して割く時間とエネルギーを
 自分の勉強に注ごうと決めました。
 そうしていたほうが楽だし、ストレスも溜まりません。
 社会に出て同じような立場におかれた時のことを考えると、
 今は良い学習の機会なのかもしれません。
 誰とでも信頼関係を結び、
 一つの目標に向けて頑張っていこうと考えること自体、
 私の思い上がりでしょうか?
 
 ――――――

 回答。  

 今から25年前、大学に4日しか通わず、
 取得単位ゼロのまま退学した「変わり者」の僕には、
 この相談に応じるのは不向きかもしれませんが、
 聞いて下さい。    

 「人は無力だから群れるのではなく、
  群れるから無力なのだ」――。

 僕が19歳の時、
 反骨のルポライター・故・竹中労が残した、
 この言葉に深く感応し扇動された僕は、
 後先考えることなく、大学も就職も捨て、
 人生の決まったレールから、
 自主的にはみ出ることを決意しました。   

 それは、今から思えば若気の至りそのものでした。

 そして紆余曲折の末、芸人の仕事を選び、
 一つの職業を20年過ごした、
 今、改めて自分の「仕事」について思います。   

 芸人の職業そのものは、群れから放れ、自己研鑽の末、
 個性を自己プロデュースすること、
 望んで「変わり者」になることが極めて肝要です。  

 しかしながら、世の中の「仕事」の多くは  
 他人との共同作業であり、
 協調性のたまものから生まれます。

 そして芸能界に限らず、
 「本物の仕事」であり「良い現場」とは、
 人が群れているのではなく、
 リーダーの元、一つの目標を目指すため
 一筋縄ではいかない強い個性の持ち主が集い、
 「信頼関係」を確かめ合うよりも、
 もっと熾烈に、しのぎを削る
 「果し合い」のような場であると思います。  

 そして、僕の経験上、
 組織のなかで自らが中心人物となった際は、
 誰よりも汗を流し、弱音を漏らさず、
 自己犠牲を厭わぬ自覚こそが、
 チームの方向性を導きます。  

 それには自分が「無力」では無理です。
 もしも、自分が、まだ「無力」と自認するならば、
 最初は「群れ」から離れ、自己の勉強に勤しみ、
 自身が「無力」から脱することこそ、
 将来、「本物の仕事」と出会える秘訣でしょう。
  
 大学時代は、社会に出るまでの助走です。
 だからこそ、ゼミでもすぐに結果を求めるのではなく、
 それまでの修行の期間と考えてはいかがでしょう。
                        (漫才師)


▼2008年8月1日

『東京人』取材。
アウトロー特集、竹中労について。
出会いと思い出を語る。


▼2008年8月10日

『東京人』アウトロー特集。
取材を受けた竹中労編、原稿推敲。

反骨のルポライター竹中労を語るのに、
逸話は無限。されど、字数限りあり。
俺が、思春期に職業決定に決定的な影響を受けている話を
中心に盛り込む。


▼2010年4月29日

行きがけに読んだ、
竹中労『完本 美空ひばり』(ちくま文庫)の素晴らしさについて。
僕はビートたけしの前にルポライター竹中労に心酔していたことは、
いろんなところで語っているが……。

この本が刊行されたのは1965年。
その後、1987年、1989年に増補版などが
朝日文庫から出版され、
2005年に、今のちくま文庫に入った。
僕が読むのは20年ぶり。
他の竹中労で読み返すものはあるが、
この本は振り返ること無く、
すっかり忘却の彼方であった。

しかし、今回、機会に恵まれ読み返したが、
もはや名文に次ぐ名文、美文の嵐で、
特に第3章の竹中労がゴーストになって、
ひばり自身の回想文で綴られるくだりの
竹中労節全開の名調子たるや、
もはや、その素晴らしさ、筆舌尽くしがたい。

『完本 美空ひばり』文庫解説の山崎浩一も
「竹中労の最も読まれた代表作なのに、
 その後の再評価の中で語られていない」
と指摘しているが、その通りだ。

『天才 勝新太郎』(文春新書・春日太一)級と言えば、
改めて確認してもらえるだろうか。

美空ひばり親子が、
横浜大空襲で防空壕の中で
母子5人が身を寄せるくだり。
その横浜の大空襲の翌日、
その地獄絵図の地を訪れる、
若き竹中労が死臭を嗅ぎながら、
自らの死生観を決定づけるくだり。
白眉。

美空ひばり、9歳の時、
四国の山奥でバス転落事故のため、
危篤状態から九死に一生を得、
19歳の時にはファンに塩酸をかけられ、
25歳の小林旭との結婚の秘話など、
知ってはいるが改めて読み返すと
壮絶どころではない。
ここまでが全盛時代なのだから。

ひばりの登校日数不足に、
関係者の説得を受けても、
小学校の卒業を認めようとしなかった校長や、
ひばりの芸能活動に最後まで反対し、
莫大な稼ぎを断固、
受け取ろうとしかったお父さんの存在など、
一卵性親子と言われた母子ものだけでない
竹中労節に唸る。

美空ひばりの本、
自らを「檻の中の孔雀」に過ぎないと規定し、
マスコミとの軋轢を自ら、
「決して人並みの幸福など味わえない」と述懐する。

今、共演者でトラブル禍の眞鍋かをりちゃんに
「大丈夫。芸能人、スターである労苦、光と影は、
 かつてはこんなものではないのだよ。頑張って!」
と渡してあげたかった。


▼2011年2月5日

深夜、
『GONZO-ならず者ジャーナリスト、
ハンター・S・トンプソンのすべて』
内覧用DVDで視聴。

観る前から期待値、ハードルは高いわけだが……
最~~~~高!!!!!!!!!!!!!
もう今年の洋画のベスト1決定だ!!!!!!!

僕にとっては、
ハンター・S・トンプソン=ゴンゾジャーナリズム
=石丸元章なわけだが……。

石丸元章と台湾ふたり旅の夜、
竹中労vsトンプソンを語った日が蘇る。

『GONZO』パンフの解説に滝本誠さんが
「アメリカの〈60年代〉と言えば、若い世代にとっては、
〈古代史〉に変わらない」と書くように、
そして米と日本でこれほど知名度に差がある作家はいない、
と書かれるように……だが。

『GONZO』のパンフの上杉隆の解説文を読んで、
なんで上杉隆があそこまで過激なのか腑に落ちた。
トンプソンの影響ならわかるわ。

この作品を見ていると、
「 深代惇郎の天声人語を読んで感動しました」的な
ジャーナリストと全く違うジャーナリズムを心底思うのであった。


▼2011年2月8日

BSジャパン『小林麻耶の本に会いたい』収録。

トークの準備して行けば良かったのだろうが、
すぐに本番突入で、
純心無垢な小林麻耶さんを前にして
「読書家の子育てパパ」
のイメージの自分が恥ずかしくなってくる
……と、ブレーキが効かなくなり、
自分のイメージを悪くしたくて暴走する。
何故、俺が殿と行ったソープ話を
必死で力説しているのか?

『アントニオ猪木自伝』
『ルポライター事始』
『BORN TO RUN』
『天才は親が作る』
『さらば雑司が谷』

5冊について話す。

頭を整理していないので、
止め処なく駄々喋り。

小林麻耶さんに竹中労の魅力ついて語ろうと思ったとき、
『GONZO-ならず者ジャーナリスト、
ハンター・S・トンプソンのすべて』
のアレックス・ギブニー監督が
トンプソンを語る話が思い浮かんでいた。

それは、こんな談話……。

「製作のきっかけ 僕がハンターについて思いを馳せるとき、
 いつもボブ・ディランのこの歌詞が頭に浮かんでくるんだ。
 "法の外で生きるには、誠実でなければならない"」

※ボブ・ディランの曲「Absolutely Sweet Marie」(1966年発表)より


▼2011年2月17日

石丸元章(@chemical999)って何者だろう?
という疑問が俺を旅に差し向けた。
なんでジャンキーなのに選挙に出たんだろう。
しかも城南電機の宮路社長に資金を出させて?
そんなモロモロの疑問。

全ての答えは『ハンター・S・トンプソン』にあった。

僕がGONZOを知ったのは、
そもそも『噂を追い越せ』の石丸さんの肩書き。

ハンター・S・トンプソンについては、
台湾で石丸さんから聴いて初めて知った。

僕は竹中労を語った。
上杉隆も同じく潜入取材ありきだ。
ハンターが今、噂に追いついた。

Twitterの140文字じゃあ単純にしか語れない。

 だから皆、本を読め!映画を見ろ!
 40男が、二人の昔話をしながら「今」を連れてくる。
 60~70年代から、地獄から……
 ハンター・S・トンプソンがやってくる。


▼2011年3月5日

映画『GONZO-ならず者ジャーナリスト、
ハンター・S・トンプソンのすべて』
上映後のトークショー。

「水道橋博士&上杉隆
現代のタブーに挑む60分 徹底討論」開催。

本番5分前、上杉さんが控え室に。
打ち合わせなく行き当たりばったりに……。

満席のお客さんの前で、
Ustream中継を外したので僕もリミッターを外して密室トーク。

上杉さんの手には、
トンプソン著、石丸元章訳の最新刊『ヘルズエンジェルズ』が。

俺はトップ『スピード』で石丸元章話。

「日本のハンター・トンプソンは石丸元章である──。」
という見立てについて、しばし説明。

そこには読者を恍惚とさせる文体もあるし、
僕の思い入れもある。

上杉隆がGONZOではなく、
『ニューヨークタイムス』の
D・ハルバースタムの系譜であることも
二人で検証。

僕が上杉隆を応援する理由(竹中労の存在がルーツ)も、
そして緊張関係も、それがもたらすリスクも説明するが、
一時間では足らない。

過激な内容だったので、
テレビやラジオでは話さない話題なので、
客席は喜んでくれただろう。

開演時間ギリギリに入り、終了後、飛び出し移動する、
相変わらずの「ウレスギ」さんこと上杉さん。
次は何処の取材取材へ?と思ったら
「東京ドームでイーグルスです」と(笑)

そういうとこキュートだ。


▼2011年4月11日

『道の手帖 総特集 竹中労』(河出書房新社)の取材。

若い編集者だったが、共通言語で話が出来るので、
ある意味、3・11以降のマスコミ事情、
そのなかで自己批判、
自問自答の鬱々たる気持ちを聞いてもらった。


▼2011年5月9日

朝からぶっ続けで若松孝二の『連合赤軍』を見て
河出書房から出る竹中労のムックのインタビュー推敲、
原一男の映画を見て本を読む、
完全に40年ほどタイムスリップした一日。


▼2011年5月31日

DVD企画『田原総一朗の遺言』収録。

一本目テーマ
『学生右翼?11月12日 羽田にいた』(1967年)
ゲスト:鈴木邦男さん。

収録後、鈴木邦男さんの楽屋へ挨拶。

10数年前の「SPA!」の
『夕刻のコペルニクス』の連載が、
「まるで金曜八時の新日プロレスのようだった」
と感想を述べると
「その例えいいねえ!」と。
思えばプロレス論客として面識あるのだが、
僕はその前、竹中労さんの著書で出会っているのだ。

『夕刻のコペルニクス』
の登場人物の逝った人の名前あげながら、
鈴木邦男さんに、活動家の人生のフェイドアウトが、
いかに寂しく哀しいものかと感慨を述べる。

右翼は、三島や野村のように散りゆくことを夢見、
負い目を感じながら死に場所を探している人なのだ。

『夕刻のコペルニクス』に息子の名前でサインを頂いた。
何時か、息子が本棚のこの本を手に取り、開くときがある。
この本もタイムカプセルになるのだ。


▼2011年7月16日

ムック本
『竹中労 没後20年・反骨のルポライター』(河出書房新社)
にインタビューを寄せた。


▼2012年8月29日

21時、『ゴールデンアワー』生放送。
MC:徳光正行、安藤幸代。

外国人パネリスト:
ヒョンギ(韓国)、オクサナ(ロシア)、
アッカ(コートジボワール)、御一緒。

テーマ「日本のアイドルから見るアイドル政経学」
ゲスト:中森明夫。

終了後、荒木町の焼き鳥屋へ。

『週刊現代』で同じページに連載を持つ
サンキュータツオと共に。

中森さん、文章記憶力の良さに唸る。
僕の竹中労ムックのインタビューの文面を、
ほぼ全て覚えていた。


▼2013年7月3日

東京駅からガン太迎えで帰宅。

そのまま倉庫部屋で、
TVブロス用に相沢くん小倉くんが、
不眠不休で続ける「俺年表」の作業に聞き取り。

一問一答に真摯に答える。

ボクも事実を知りたい。
それが何通りもある事実であっても。

17歳の時(18歳の誕生日の一日前に)
『時計じかけのオレンジ』を、
2万2千円を使ってひとりで上京して、
新宿の京王地下で見た日。

竹中労に最初に最後に会った、
爆笑問題問題、が勃発したのは同じ一日。

などなど新たな発見。

自分の記憶以上に劇的などで驚いた。

過去は確実に炙り出てくる。

人がいかに自分史を書き換えるか確認しながら、
それよりも、より劇的な事実にも胸が熱くなる。

今や「出会いに照れない」~「想い出に節度がない」
~過去偏執狂の百瀬博教がボクに宿っているのかも。

遅い時間まで、作業が続いたが、
明日があるので解散。

自分の言動が、
自分では必然的でも
他人には偶発的にしか見えてこないのだ。

でも、過去を振り返れば、全て星座で結ばれている。


▼2013年10月14日

兄から「この本は東京で手に入らないから」と渡された、
『まぁ映画な、岡山じゃ県!』に吃驚。

ボクが年表作りの時、探していた事件の詳細が!
ルポタイター竹中労が
(ボクがバイトしていた映画館)千秋座の、
あるエロ事件を取材している話。

個人史の星座が繋がる。


▼2015年5月7日

武田砂鉄さんの新刊、
『紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社)
単行本版で、改めて再読。
 
著者がまだ編集者時代だった2011年、
ムック本の
『竹中労 没後20年・反骨のルポライター』(河出書房新社)で、
インタビューされたのを想い出す。

このジャンルの書き手は数多いるが、
これが処女作とは思えぬ、卓越した切り取り方と展開、
論理のミルフィーユ状態で一枚、一枚剥がしていくうちに、
テーマが腑に落ちる。


▼2016年4月18日

「朝日新聞」を拡げたら、竹中労特集が……。

ほ~珍しい!と思い読み進めると、
オレの名前が出てきて、さらにビックリ。


▼2016年6月22日

事務所に届いていた献本
木村元彦『すべての「笑い」はドキュメンタリーである』(太田出版)、
受け取る。

読むべき本が貯まっていくが、
これは確実に読むなー。
倉本美津留さんの評伝。

この本の著者は、
かつて『アエラ』のノンフィクションコラム
「現代の肖像」で、ボクに密着取材したこともある、
『オシムの言葉』の木村元彦さんだ。

プロローグから竹中労登場、
傑作の予感。


▼2016年9月7日

東海テレビのドキュメンタリー上映会に向けて。
100文字コメントを寄せる。

【東海テレビの一連のドキュメンタリーは
業界の孤高の存在だ。
その映像は俺に語りかけてくる。
「世の中に他人事なんてない!」
そして俺の心の師・反骨のル ポライター・竹中労の言葉が木霊する。
「人は無力だから群れるのではなく、群れるから無力なのだ」
孤高だからこそ、その表現は届くのだ。】


▼2016年9月30日

NHK予習。

2006年1月31日放送の
「シリーズ笑いを極めた男たち」
~沖縄“笑いの巨人伝”照屋林助が歩んだ戦後(90分)。

遺伝子のりんけんバンドの活動などで、
ボンヤリと把握していたものが、
ようやく線と筋を通して理解できた。

照屋林助の境地こそ、
「あれもイイ。これもイイ。全部イイ」であり、
独立建国ごっこを通じて正義を笑い飛ばす、
早すぎた坂口恭平だった。

竹中労の「琉歌幻視行」を思い出した。


▼2016年10月5日

夜、なぜか、突然、樹木希林さんの知人より連絡あり。
希林さんとは名古屋で一度会ったきりなのだ。

電話番号をお聞きした後、
ボクの方からお電話をさしあげる。

「貴方、10月15日にスケジュールが空いている?」
「はい、空いています」
この日だけが、偶然にもオフ日だった。

「貴方、山梨まで来れるかしら。
 貴方は竹中労がお好きでしょ。
 追悼のトークショーに飛び入りで来てほしいのよ。
 でもねギャラはありませんから。
 主催者にも言わないから、負担に思わないで。
 もし空いていたら来なさい」

背筋が伸びる。

余談で、オレの週刊文春の連載『週刊藝人春秋』について

「あなたの連載、ホントに、お上手だわ。
 私、なかなか人を褒めないのよ。
 でも、三谷幸喜×井筒和幸、
 あれは、ホントに面白かったわー」

とずっと褒めてくださる。

恍惚と不安ふたつ我にあり。


▼2016年10月6日

18時半、娘と一緒に、文禄堂高円寺店へ。
 
オレの地元、高円寺、行きつけの本屋で、
武田砂鉄さんとトーク&サイン会。
 
ここのところ、自分でも制御が出来ない。
底抜けの下ネタが出来ないよう、
抑止力として娘を連れて行く。
 
武田砂鉄『芸能人寛容論』発売記念イベント。
会場大盛況。
 
会場には、クイズ作家の日高大介さん、
Tシャツ連載・原田専門家くん、
アイデアインクの編集者・綾女さん、
TBSラジオの津波古ディレクター、
朝日新聞出版・松尾さん
(安田浩一『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』担当)
などが観覧。

「週刊読書人」の取材もあったが、
もはや記事に出来るところがほとんどない(笑)始末。

脱線に次ぐ脱線のノンフィクション論。

武田砂鉄さんの「芸能人寛容論」──。

今から予言しておくが、
本書は今後も何回も編み直されて後世にも残る。
ナンシー関さんの本のように。

そして、本人が困惑している、
「次世代のナンシー関」
との評価が付いて回ることも。

テレビタレント評だけに誰もが読める名作。
 
武田砂鉄さんとのトークショーで、
「活字の負荷」について議論になった。

「どうしたら、この本が売れますか?」
の質問に「売れる本にするには活字の量を半分にしたら」
と云うボクの提案。
 
「でも『メルマ旬報』ほどの活字の負荷は他にない、
永遠にスクロールしないと……」と砂鉄さん。

砂鉄さんでもBOOKSTANDアプリご存知なかったのだ。

武田砂鉄さんもボクの本をじっくり読み込んでくれているが、
自分のスタイルに、ボクの『本業』(文春文庫)
の影響を語ってくれるのは、
嬉しかった。(ボクもそれを感じていた)

サイン会後の、書店の皆さんと集合写真。
皆さんがオレのポーズに引きづられているのが楽しい。
 
終了後、行きつけの居酒屋で打ち上げ。
 
編集者に囲まれ、今、話題の作家の田崎健太さんが加わり、
飲み会となる。(エア飲み会ではない)
 
ノンフィクションや出版系のトークとなると、
ボクも話は止まらない。
 
散会後も徒歩3分の我が家へ招き、
「SPIDERとは何か?」しばし実演会を(笑)。
武田砂鉄さん、某誌の「みうらじゅん特集号」に執筆とのこと。
 
「そう言えば、みうらさんが、まさかの親バカの……」
と言うと砂鉄さん即座にはがきを取り出し、
「こちらですね」と。
「おー!今、やっているじゃん!」との流れに。
 
武田砂鉄さんとの出会いは、
彼がまだ河出書房新社の編集者だった頃、
『竹中労 没後20年の反骨のルポライター』ムック企画で、
インタビューされたのがきっかけだ。

大震災から丁度一ヶ月後の4月11日。

まだ20代の記者に「若すぎるだろう」と思ったら、
思いの外に竹中労への偏愛と震災の苦衷の念を引き出された。
 
このムックを読み返すと、
若き編集者が当時のボクと対峙して
真剣に問答しているのがよくわかる。
 
そして震災一ヶ月後の自己批判で揺れる心中、
上杉隆を強く応援しているところも(笑)。
時は流れる――。
 
今のボクに、
「町山の影響で──、津田の影響で──、博士が壊れた」
などと、的外れに言われるが、
明らかにその影響を受けているのは、竹中労だ!

竹中労に原点回帰している。

「人は、無力だから群れるのではない。
 あべこべに、群れるから無力なのだ」

10代の時に刺さった「竹中労」、
50代になってもあの日を想い出し胸に手を当て、
あの日の志に比べて「もう大人だから……」
とか言い訳したり、
自分が恥ずかしいような想いをしたくない。

それは中学40年病だ。


▼2016年10月11日

NHK BSプレミアム『プレミアムカフェ』
ドキュメンタリーシリーズ
「“笑い”を極めて男たち」3本分、収録。
(11月15日より3日間連続放送)
 
三本目:
「沖縄“笑いの巨人伝”照屋林助が歩んだ戦後」
(2006年1月31日放送)
 
沖縄の伝説の喜劇王、照屋林助、
ちゅらさんの「ゴリのお爺ちゃん」として紹介。
 
その生涯は、今までの、点と線が繋がる。

少年時代、読んでいた、竹中労の『琉歌幻視行』は、
当時は、キッチリと読めなかったものだが、
実は、ここへ繋がるのだなーとガッテンがいく。
自分がわからなかったことの全てが回収されていく。


▼2016年10月15日

12時半、本当に数少ないオフ日だが、
青天の霹靂で樹木希林さんに誘われて山梨へ向かう。
 
RAM RIDERさんのネットラジオ、
『オーディオギャラクシー』最新回聴きながら。

人生は伏線だらけ、その回収に向かうのが後半生だ。
 
まさかのタイミングで、
ボクが思春期にビートたけしの前に憧れた、
反骨のルポライター・竹中労へ回帰する。


▼2016年10月24日

BIGBANGのYouTubeをエンドレスで見ながら
「FANTASTIC BABY」を連呼、日記作業をすすめる。
 ----------------------------
RT @araikaoru (荒井カオルさん)
樹木希林氏や水道橋博士編集長らによる
竹中労シンポジウムの様子が、
鈴木邦男ブログに出ていた。
「竹中労 没後25年、今ふたたび」 
http://kunyon.com/shucho/2016/161024.html
 
↑衝撃。
「博士は50才か。知らなかった。若々しいから30代かと思っていた」
鈴木邦男さんには、はっきり「ボク、54歳です!」って言ったのに……。
----------------------------

11月15日のシンポジウムで共演した鈴木邦男さん、
ボクのTシャツを見て
「博士は缶詰が好きなの?」と真顔で聞いてきた。

「いや、これウォーホルのキャンベル缶です」
と言ったらキョトンとされた。
 
竹中労ムックの佐高信さんとの対談内容も
「覚えていない」と。
ボクが代わりに内容を伝えたのだが……。

嗚呼、「夕刻のコペルニクス」よ!
(「夕刻のコペルニクス」は鈴木邦男さんの血湧き肉踊る傑作エッセー)
 
鈴木邦男さんは昔から尊敬している。
何十年も前から何度も対談してきたし、
著書も数々読んできた。
 
何時もニコニコとされていて包み込むような優しさ、
そして握手をするだけで
人としての強さがわかる人だった。
 
が、毎回、ボクは年齢不詳のままだったのだろうなぁー。


▼2016年10月28日

震えるほど寒い中、今日も親爺サウナへ。
日々、数ミリ進行の開脚計画を前に。
温まるなー。

ボクは、反骨のルポライター竹中労関連の書籍は、
かなりコレクションしているほうだが、
竹中労の父、竹中英太郎作品譜
『百怪、我ガ腸(はらわた)ニ入ル』は、定価1万円と、
高価なため持っていなかった。

このたび「竹中英太郎記念館」から贈っていただいた。
これはありがたい!

まるで幻視の筆、しばし、魅入る。


▼2016年11月1日

『メルマ旬報』執筆者のひとりでもある、
田崎健太さんの『週刊現代』の連載
「ザ・芸能界 テレビが映さない事実」、熟読。

能年玲奈の「のん」問題。
 
往年のルポライター竹中労の仕事を彷彿させる。
デリケ-トな話を描くのだが、文章の格調も高い。
ノンフィクションとは公平な双方向の取材で成立する。

百田尚樹先生にも読んで見習って頂きたい。


▼2016年11月12日

『週刊現代』早売りフラゲ。
 
メルマ旬報でも連載中の田崎健太さんの連載。
「ザ・芸能界 テレビが映さない真実」特別篇が素晴らしい。
 
ついに周防さんがインタビューに登場。

筋を通して面と向かい話を聞き、
両論併記することがノンフィクションの基本である。

人は誠意と共に語り道が通じる。
下衆の勘繰りでは駄目だ。
話は通じるわけだから、まずここからだ。
 
「芸能界」の本質とは何か?
田崎健太さんは今、取材を通し
ノンフィクションで肉薄しているし、
かつては「文」の世界では
反骨のルポライター・竹中労が文字通り君臨していた。

そこ(芸能界)には「仁義」そのものが大事なことなのだ。
だからこそ、取材者にも仁義を求めるのだろう。
 
芸能界で仕事をしている自覚がない、
覗き見ようとするサブカル育ちの若いひとたちには、
その構造が見えない。

「芸能に流れる仁義とは何か?」
最近ではカンニング竹山くんの単独LIVEのテーマでもあった。


▼2016年12月14日

21時から、高円寺の『石川』へ。

前々から約束していた津田大介さん、
そして急遽お誘いした久田将義さんと会食。

とにかく雑誌の編集者とライターの話は大好物で止まらない。
もともとボクがその業界にいないからだろうし、
お二人とも考えの古い人間であるボクの価値観を、
受け入れてくれるからだとも思う。楽しかった。
  
ふぐ刺しをつまみながら、
改めて、サブカル風景に想いを馳せる。
 
ボクはロマン優光や津田大介さんより10歳位年上、
久田さんよりも5歳年上なのだから、
やはり見えている風景が違って見えるよなー。

久田さんに伝えるのをすっかり忘れていたが、
『東京人』に8年前に竹中労を追慕して、
こんな原稿も寄せていたのだなぁ~。


▼2017年1月10日

事務所に居残り。
そのまま、集英社『KOTOBA』取材。
 
「ノンフィクション特集」 竹中労と僕について、
聞き手は、伊藤直樹さん(編集)と鈴木工さん(ライター)。


▼2017年1月22日

トランプの時代になったけど、
敬愛するルポライター、故・竹中労が言っていたこと。
言論は左右を弁別せざる情況を作ること。
両論を併記すること。
日曜日の朝から、
東京新聞朝刊はちゃんとしていて良いわー


▼2017年1月26日

橋下徹さんが確信的に対面話術が強いのと同様、
上杉隆さんの場合も一番気をつけるべきなのは
いくら正鵠を射ても、

「もう、それ訂正してますから!
大丈夫ですか??」

という話法ですねー。
効いてないフリをする。

ボクは「人は群れるから弱い」
という故・竹中労の言葉のもと、
なるべく人の意見を聞かないようにしていましたが、
上杉隆さんともなると
余りにも論点が多すぎて焦点を絞りきらない気がします。

俯瞰図で見ている識者の皆さん教えてください。
彼が何を打ち消し、何が一番問題であるのかを(新入生は除く)


▼2017年2月25日

28日発行の『水道橋博士のメルマ旬報』(Vol.112)、
編集長として早読みチェック。
 
【原稿確認】
細田マサシくんの連載「格闘技を創った男~プロモーター野口修評伝~」は、第12回「別れのブルース」~

「戦後最大のフィクサーと呼ばれた右翼活動家の児玉誉士夫は
獄中で親しくなった野口進が府中刑務所を出所すると、
すぐさま上海に呼び寄せた」

面白すぎ。

上海篇では児玉機関と野口家、
戦前、戦中の大物芸能人との交流が描かれるが、
元祖ルポライター竹中労の本にも触れて
「現在の日本に於ける芸能事務所の創始とは何か?」に触れている。
この視点も実に興味深い。


▼2017年7月12日

文春の連載『藝人春秋Diary』を書き貯める。

昨年10月、山梨のさくら座で開催された、
「竹中労没後25年・今ふたたび」
シンポジウムの記録DVDを確認。

以前に送っていただいた資料用の映像。

樹木希林さん、鈴木邦男さんらと共に壇上へ。
ボクは純粋に飛び入り。
 
樹木希林さんの貴重な証言が続く。
その場に居たのに、忘れていたことだらけ。

思わず、メモを取り出す。
文章を記憶で書かない。

記録を確認して書くのを心掛ける。
ボクの任としては重要な事だ。


▼2017年7月17日

『昭和の不思議 10』
 
この本の中で、
「『噂の真相』伝説」を久田将義さんが書いていた。
 
御本人にも直接、その影響を説明したが、
漫才にも文章にも、
そして現在、文春砲の一員のボクだが、
書いているものの根底には、
竹中労と「噂の真相イズム」が流れている。

なかなか、このイズムがわららない人には
一生わからない。


▼2017年8月5日

高円寺の古本屋、大石書店へ。
大人買い。
すっかり、行きつけの店になったなー。
 
ここで見つけた一冊。
「演歌の達人」
竹中労史観のなかで演歌の再評価。
この本は知らなかった。


▼2018年3月8日

「博士、最近、かなり伸びていますが髪の毛は切らないんですか」
と新人の藤本マネージャー。
 
「4月8日に山梨で
樹木希林さんと竹中労を偲ぶ会があるので、
そこまで伸ばして、内田裕也に寄せたいんだよ」
 
「そういう理由ですか、伸びますかね?」
 
「そんときはウィッグでいいから」
 
「……」


▼2018年4月8日

9時、スズキ秘書運転、
藤本マネ、同乗移動で山梨へ。
 
談合坂SAなど計3回のトイレ休憩を経て、
2時間半かけて、山梨県立文学館へ。
 
11時半、到着。
 
一年ぶりにお会いした、樹木希林さん。

ご挨拶後、
「今、貴方に一番会いたかったわ!」
「ワタシ、全部、聞くから、忖度とかしないからね」
と完全インタビュアーモードに。
 
「もし良かったら、珈琲を飲まない?」と誘われ、
そのままマンツーマン。
「お昼も一緒に食べない?」と、さらに誘われ、
 
昼食も一緒に食べながら……。

はなしても、はなしても、尽きず。
のべ2時間以上ふたりきりでお話する。
 
途中、スポニチの若手記者が割って入ろうとすると、
「今、食事中なのよ!」と拒否。
「貴方は、わたしに話せば良いから」……と。
 
途中、何度も、
「貴方は、絶対に芸能界を辞めないでくださいね」
「私は忘れないひと、
 そして、話すひとだけど、書けるひとではないの。
 貴方は書けるひとだから……とても貴重なのよ」

「芸能界は騙すひとも騙されるひとも、
 魑魅魍魎がいる、それだから面白いのよ」
 
「今、貴方の文章を探しているの、
 文春の三谷幸喜の回が、とにかく秀逸だったわ」
 
「あ、もう単行本になりましたので……」
 で『藝人春秋2』をお渡しする。
 
そして、舞台は本番。
 
第1部:「大工哲弘 島唄を唄う&トーク」の開演後、
控室を出て、スポニチ若手記者の取材を受ける。
吉澤くん、塁に出れたね。
 
15時、壇上へ。
第2部:「竹中英太郎と竹中労 父子を偲ぶトークのつどい」
 
登壇:樹木希林さん、鈴木邦男さん、喜国雅彦さん、末永昭二さん
竹中紫さん、金子望さん、ご一緒。
 
鈴木邦男さんは、飛び入りだが、
最近転倒され、そして風邪気味で体調不良のまま、
舞台の途中でも、眠りこけられた(笑)
 
喜国夫妻は初対面だが……。
もちろん、昔からよく知っている。
だって「大島渚」なんだもの。
楽屋ではマラソン話なども。
古書収集のレベルが高くて聞き入った。
 
大衆小説研究家の末永昭二さん作成の
挿絵画家としての竹中英太郎、
戦前と戦後の作風を比較するパワーポイント資料で、
その絵の世界へ魅入られる。
 
途中、金子望さんの司会に何度も割って入った。
どうしても、客席に説明をしたくなる。
 
最後の質疑応答も、真剣なものが多く、
ボクもクソ真面目に答えた。
 
最後の女性の質問は印象的だった。
客席には、ルポライターの昼間たかしさんも、
勿論、ご質問にお答えした。
(後から、素晴らしい記事を書いてくれた)
 
終了後、会場出口で、フジ『とくダネ!』、
スポーツ報知、サンスポの合同取材を受ける。
わざわざ、ここまで来ているのだ。
 
移動。
併設のレストランで打ち上げ。


▼2018年9月16日

夕方、樹木希林さんの訃報。
享年75歳。
 
何処かで予感はしていたが、流石に落胆、動揺。
 
樹木希林さんから使命を受け、
山梨まで2度に渡って、
ルポライター・竹中労の追悼の席に赴き、
その様子を『藝人春秋diary』で2週に渡って描いた。
 
そして、御本人の直電で、その文章までお褒めいただいた。
 
希林さんの長い人生の最終部分で触れ合っただけだが、
ボクにとっても忘れ得ぬひとだ。


▼2021年1月13日

百瀬さんの話、文字記録にあるものと、
記憶にあるものが混在しているので、
念の為、録音テープで確認したら、
記憶もほぼほぼ記録に一致する。
喋り方も。
当時、相当本気で聴き込んでいたのだと実感。

2018年の日記で確認(角岡伸彦さん)

1)遅まきながら『藝人春秋2 死ぬのは奴らだ』を読了。

博士が接したタレント、作家、歌手などのルポ集。
私が評伝を書くために取材した、
やしきたかじんや彼に関係する政治家、
テレビスタッフが詳述されている。テレビと政治を考える好著。

2)博士も取材するべきだったと後悔する。

博士曰く「お笑いは”負け組”がいない最強の職業。
売れてない、カネがない、恋人がいない、仕事がない…
失敗は全部、笑い飛ばせるし、ネタになる。全てが仕事になるんです!」(要約)。

3)至言なり。最終章の告白も胸に響く。
石原慎太郎は彼に小説を書くことを勧めたが、
このままルポを書き続けてほしい。

会ったこともないルポライターの過去の文字に励まされる。
今、noteに書いている『命懸けの虚構〜聞き書き・百瀬博教伝』
ノンフィクションではないが、
ボクが愛したルポライター、
竹中労『鞍馬天狗のおじさんは 聞書・嵐寛寿郎』
へのオマージュだ。

関連記事


サポートありがとうございます。 執筆活動の糧にして頑張ります!