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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』24

第6章 バブル崩壊

バブル崩壊

この連載は、私が故・百瀬博教氏と10年に渡って交際し、その間に集めた百瀬博教氏の全著作を時間軸に並べて構成し、簡略化したものを本人に当ててインタビューするという形式をとっている。
 何度も書いているが、この話は真実ではない。ノンフィクションとしても成立することもない一方的な聞き取りのみで進行している。
 そして編集者、校正も今のところ並走していないので、まだまだ取材不足や誤字脱字などの初歩的なミスも多いことをお許し頂きたい。
 そして、資料発掘が断続的に続いており、かなりの書き直しも後にあることを予告しておきたい。
 それでも、この不完全な商業文を読み継ごうという読者に謝意を述べると共に、とりあえず物語を進めていきたいと思う。

………………

 平成2年、1990年2月、株式市場が暴落しバブルが崩壊、日本経済の「失われた10年」の始まりだった。
 この頃、博教の前に池田稔はめったに顔を出さなくなった。
しかし、それは博教にとっては都合のいいことだった。
 1989年1月号から始まり、二年続いた「新潮45」の連載『不良日記』、が終ると「週刊文春」の花田紀凱編集長から連絡があり紀尾井町の文藝春秋のロビーで会った。

──私は数ある百瀬博教本のなかでも『不良日記』が最高傑作だと思っている。自家製本ではなく、メジャー出版社としては処女作となる、この本は、

「不良外伝みたいなもの書いてくれませんか」と花田は言った。
「嫌だな。タイトルが全くいかさない。『不良ノート』ならいいけど」
「不良ノートか。う、うん、それならノートをノオトとしてもらえませんか」
「駄目、駄目、ノオトなんて絶対駄目、古くさい。第一俺の書くものは全く哲学的、思想的じゃないからオの字は似合わない」
「三木清の『人生論ノオト』のこと言ってるんですか、意外に教養があるんだなあ」と二人は話した。
 そして、週刊文春への連載が決まった。

 92年の8月から連載は始まったが、内容は、この連載でも分かる通り、百瀬博教がその無頼の日々を回想していくエッセイだった。しかし、ビートたけし、椎名誠、林真理子、伊集院静、山村美紗、大石静などなど錚々たる連載陣が並ぶ中、世間的にほとんど無名の作家に当時破竹の勢いのあった『週刊文春』がいきなり5頁も割かれることは、極めて異例のことだった。
 しかも、この企画は花田紀凱編集長の肝煎りであり、毎回「待望の新連載」「大好評連載」などとコピーが添えられ、明らかに特別扱いであった。

「不良日記」の中に、この頃、1990年6月19日の真夜中の百瀬邸での出来事が「指を収める」と題して書かれてある。

この日、チャイムが鳴ると同時に来客は「昇です」と名乗った。
扉を開けると、組長の伊藤昇を先頭に香田芳松、林善光、菅原聡己、渡海泰一、山乃口伸二郎が入って来た。全員が応接間の前の廊下に正座して挨拶が済むと、菅原が二十分前に指をつめた説明を林がした。
「組長があんなに尊敬している百瀬さんの前で、一秒でも顔をしかめたりした態度を取った自分を許せず、申し訳なく思って指を食い千切ったんです」
 ほんの一時間前に菅原と会った時、真っ赤な顔をしていた。彼は毎日彫一の家に通って刺青を彫って貰っていて、その日は彫物の為に出る熱が何時もより高いので、事務所で凝っとしていたが、久しぶりに伊藤と新宿で会っている博教の事を聞き、挨拶に来てくれたのだ。
菅原の顔を見た伊藤が「酒なんか飲んで挨拶に来るな」と叱った。
一瞬哀しそうな目をした菅原を見た。反抗的な目では決してなかった。
博教が帰った後二十六歳、伊藤組長の為なら白刃の中へ飛び込む剽悍な漢が大切な指を落したのだ。納めてやらなくてはならない。
「ここに乗せろ」
「汚れてます」
昇が、たたんだティッシュペーパーの中から出して私の左掌に置いた菅原の指を、口に持って行くと、そのまま嚥み込んだ。

どうだろうか。この臨場感ある筆致、しかしい、これは何を意味して、そして何のために書いたたのだろう、と今にして思う。

この年、西麻布の「キャンティー」で博教は作詞家、秋元康と邂逅。
「『不良日記』のファンです」と声をかけられる。
その後、「アンアン」でこの本を紹介してくれた。
 秋元康は百瀬博教の詩人、文人の才を生涯高く評価した。

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1991年、博教が51歳になると石川次郎が編集長のマガジンハウスの「ガリバー」に『空翔ぶ不良』を連載した。(平成3年4月~平成4年)
この連載では、世界を旅行して周ることに。NY、パリ、ロンドン、ブタペスト、北京、サンクト・ペテルブル、モスクワ等、イラストレーター安西水丸氏との二人旅で、大尽取材旅行した。
博教は、NYではじめて見たスノードームに魅せられた。
すぐに収集を始め2005年にはスノードーム協会事務局長に就任した。死ぬ間際までは蒐集は続き、約2000個を所有し世界一を標榜した。
(そして、博教の死後、そのコレクションは、今も世田谷の小学校跡地の「ものつくり大学」に残っている。敷地内の一室にあるスノードーム美術館は特定非営利活動法人 日本スノードーム協会が運営している世界で唯一のスノードームを常設展示している美術館だ。
 ちなみに、この美術館が設立された時はの人事は、
名誉館長: 花田紀凱(月刊Hanada 編集長)
顧  問: 水道橋博士(タレント・作家)
顧  問: 周防正行(映画監督)
顧  問: 本間正章(マスターマインドジャパン)
顧  問: 松浦勝人(エイベックス株式会社社長)
―五十音―
と記されている。

この旅行を機に安齋肇が百瀬本の大半の装丁を担当するようになった。
取材の海外旅行をするようになると、博教は多忙を極め、池田と会う時間がとても少なくなった。しかし、池田の鼻もちならない噂は次々と入ってきた。
ほんの数年前まで千三百円の幕ノ内弁当が御馳走だった男は、新宿NSビル三十四階の「歌垣」で二十万円の昼めしを喰べ、新宿のセンチュリーハイアットホテルの一室を一年間借りて、暴風雨の海を渡ってみかん船を無事江戸へ着けて大儲けした紀国屋文左衛門を気取るようになった。

「資産が二千億になったら一休みするんだ」と言ってたいう話は赤城明から聞いた。原宿駅前の三億円のマンション、赤坂、四谷、広尾、乃木坂、六本木のマンション、そしてビバリーヒルズにもコンドミニアムを二室買った噂話が聞こえて来た。ちょうどその頃、池田が金子國義のポンチ絵を一枚、一千万円で2枚購入したと聞いた。
博教は、澁澤龍彦の家で、金子國義の絵は何度も見せてもらっていて、気に入っていた。
金子は大森の古い洋館に数人の弟子と一緒に住んでいた。彼の外見は洋風であったが、その心根は江戸前でさっぱりしていて、白いフラノ製のズボンをはいた青年が一人立っている百号の絵を一千万で売って平気な顔をしていられる男ではなかった。
池田があり余る金を見せびらかす為に、酔いも手伝って一枚一千万円で買うと言ったに違いない。金子の友人と一枚一千万円の絵の話をした半月後、BMWから降りようとしている金子と偶然銀座の並木通りで会った。
「絵のお金のことで怒ってらっしゃるそうですけど、一枚一千万は嘘です。池田さんが置いていかれた二千万円の半分には手を付けずにお返ししようと思って姉に預けてあります」
「俺は怒っちゃいないよ。池田が気に入って一千万の束をポイポイと二つ投げてよこし、俺の会社へ届けろって格好つけたんだろうから貰っておけばいいさ」
「いいんでしょうか」
「あたりまえだろう。ゴッホの絵は七十億もするんだぞ。それと比べれば、池田にとっては廉い買い物だろう。ところで、『太陽』に描いた象の首をしたマハラジャの絵はいくらで池田に売ったの」
「…………」
「あの絵があった『太陽』を池田に見せて、これ好きなんだって言った数日後に奴から連絡があった。なんだろうと思って古本屋の奥の事務所へ行くと、俺が好きだと言った象の首をしたマハラジャの絵が壁に掛けてあった。『どうです。いいでしょう、百瀬さん』て池田は鼻をふくらませて自慢してみせたけど、あいつって何でも俺のやることを真似する真似っ子なんだ。一千万円のポンチ絵――いやごめんごめん――だって俺に見せびらかす為に買ったんだ。金は貰っておけよ。何かあったら俺が責任持ってジャッジしてやる」
「有難うございます。それでは失礼します」
金子は夜の銀座の町へ消えていった。

私(水道橋博士)が金子國義と邂逅することになるのは2010年である。
細部が面白いので日記をそのまま引用する。

2010年10月30日――。

13時半、東京タワースタジオ入り。め~てれ『CONTACT CAFE C』収録。

一本目ゲスト:金子國義(&お友達ゲスト:緒川たまき)

金子國義さん初対面だが偶然、収録前にトイレで並びで連れション。
だが、そのままジッと動かない。動かないままうめき声を何度かあげている。
話しかけても反応もしない。そのままトイレの外に出て待ち受ける。10分後、トイレを出た時に挨拶。不思議そうな顔を浮かべ「あなたは誰なのぉ?」
メーク室でもお隣に、鏡越しにず~っと見つめられる。
そして「綺麗ねぇ~」「は?」「いや若さが羨ましいのよぉ」「いや僕もう若くないんですけど」「老いってつらいのよぉ。あたしなんて、もうこんなに汚くなってしまてぇ」と鏡に自問自答。
まるでビスコンティの映画に出てきそう。

そのまま、金子國義画伯の絵を多数所有していた百瀬博教さんの想い出話。
「裕次郎のボディガードだった……。あのひとともう一人が、お金をたくさんもっていて、あの頃、あたしの絵がいっぱい買われていったわぁ」
……とさらにマニアックな話に。

本番も最後まで僕自身もずっとオネェ言葉で対応。TVの文法にもバラエティの文法にもない自由自在な実存。とトークショーとしても醍醐味。
自分の美意識を撒き散らしながら存在が咲き誇る。途中、見つめ合いながら思わずキスしそうな雰囲気になる。

金子國義さん回のゲストに緒川たまき姫。この不思議な国にアリスが落ちてきて、「國義ちゃん!」とあやしまくる怪しげな気配。
「本来、この二人が一緒に暮らせば良かったんですよ」と。

金子國義画伯のお弟子さんが最後に登場。画伯の絵から抜けだしたような美貌と肉体。そして先生に傅かせながら
「わたしと目線を合わせてんのよぉ!」と言われるがまま。
マッチョな男と老人
「晩年の中上健次のようだ」と呟くと
「そういう世界が出来る人がいなくなりました……」とたまき嬢。

金子國義画伯、過去、殿の『誰でもピカソ』の出演はあるが、めったにTVに出ることがない。その意味でも美意識の鎧が溶けていく様を映しだした、
神々しくもチャーミングすぎる貴重な映像だった。美しいものだけとしか暮らせない74歳の老人の美貌の都の壊れかけの城、夢うつつのなかを行き来するような、自在なサービス精神と言う名のボケっぷり。
この人も青春と晩年が共存している。

 と書いている。
「さらにマニアックな話」と日記で伏せたのは――。
「ワタシは百瀬さんのことが本当に好きだったの。あのころ、彼はピチピチして本当に可愛かったのよ。だから絵を売ってあげたの。でも、いくら貢いでも相手にしてくれなくてワタシはフラレちゃったのね」であった。
 私は、この年だけ何故か番組で3度も会い、百瀬博教を巡る何通りもの質問を重ねた。最終的には自宅ロケまで許されるようになった。会えば強い抱擁をされ絶大な信頼を受けるようになっていた。
 そして、2015年に金子國義さんは亡くなられた。

 金子國義は、ずっと俺のことを好いてくれてましたよ。彼は美意識のある男だから金のことなんか見てませんょ。だから池田が嫉妬したんですよ。池田は俺の関心を惹こうと思って絵を集めるわけですよ。男の嫉妬は醜いからな。男が男を好きになったら、嫉妬はつきものなんですよ。だったら嫉妬する方じゃなくて、嫉妬される方になった方がいいからね。

博教が、池田稔の逮捕を知ったのは、10月9日の読売新聞だった。
池田稔が旅行先の香港から沖縄・那覇空港に帰り、タラップを降りたところを警視庁の捜査員数人に取り囲まれ逮捕されたことを報じていた。
富士銀行乃木坂支店の渉外課長と共に都内のノンバンクなどから延べ四千億円の不正融資金を引き出したというのがその罪状だった。
池田稔は、バハマで株をやる大相場師には成れなかった。彼がもし、見栄を張らず、あの頭脳を古本販売にだけ生かせば、今頃は大実業家に成っていただろう。
4日後の10月13日、「池田について尋ねたい」との電話が警視庁捜査二課の佐賀誠刑事から電話があった。
翌日、大雨の中、警視庁の受付に行った。二人の刑事がやって来た。一人が「佐賀です」と言った。二人に案内されて、小さな取り調べ室に入った。
 机の向こうの折りたたみ式の椅子に腰を下ろすと、台座の部分が壊れていて腰が滑り落ちそうだった、
(こいつらは俺がもう犯罪人だという扱いをしている。並の事情聴取ならば、壊れた椅子を用意するはずはない)
 博教は手提げの紙袋の底にリンゴ三個と文化包丁を入れて持って来た。すぐに包丁が取り出せるように紙袋を膝と膝の間に置いた。万一理不尽なことが起これば目の前の二人の顔を斬っ払ってもここから脱出しなければならない。事件を捏造されて一生獄暮しさせられてはたまったもんではない。
 生年月日に始まって、住所、現在やっている作家の仕事、池田稔との出会いからこれまでどんな付き合いをして来たかについて聞かれた。
「池田稔は、富士銀行乃木坂支店の山田課長と会わせたのは貴男だと言っているが、本当ですか」
「ええ、私です。確か昭和62年の秋だったと思います。場所は東京駅近くの『八重洲美術店』です。その店は4年前に閉めて今はありません。山田課長は山晶興産の社長の所へ出入りしていた時、紹介されたんです」
「山晶の社長って赤城明だよな」
 佐賀刑事の後ろで黙って二人の話を聞いていた相番の刑事がいきなり横柄な言葉で口を出した。
「そん時はもう山田課長が不正融資しているってこと、知ってたんだろう」
 (何が「だろう」だ、こいつは。百歩譲っても山田課長と親しく喋ったのはこの日が初めてだ。あんなに感じのよかった銀行員がまさかこんな大それた事件を起こすとは思わなかった)
 すると今度は下司な言葉遣いの刑事に代って佐賀が言った。
「池田から一億円取ったんだって」
 本題はこれだった。博教は知人、友人達から金を集めて保証人となり、池田の株の売買に使う資金を都合してやり、その利益の分け前はきちんと貰ったが、金と取ったという事実は一度もなかった。
 佐賀と喋っていると、いきなり刑事が部屋へ押し入る勢いで飛び込んできた。博教の顔に一瞥をくれてから二人の刑事に、
「どうした、金を取ったって言ったか」
「いいえ」
「そうか、今にはっきりする」
 この嘘つき野郎という顔で博教をにらみ、それきりで部屋を出ていった。
博教は包丁を用意してきたことに満足しながら、「帰る」といきなり立ち上がった。つられて二人の刑事も立ち上がった。
「すみませんが、池田と山田課長が会ったという『八重洲美術店』へ案内して下さい」
 二人の刑事はもう何度もそこへ行った筈なのに「八重洲美術店」へ案内してほしいと言った。それが終ったら、これから原稿を渡しに行く歌舞伎座裏のマガジンハウスまで送ると言った。
 刑事の用意した車に乗ると、晴海通りを銀座三越に向かって走ってもらった。
「すごい雨ですから、案内してもらってからマガジンハウスの前まで送ります」
取り調べ室では悪役丸出しだった相番の刑事は運転席で笑顔を見せた。
取り調べでない時の二人の言葉遣いはとても好ましかった。しかし、彼等がどこで変身するか判らないので、車がソニーの前のスクランブル交差点を直進し、時計台が銀座の名物になっている和光の横の信号で停まった時、左側のドアを開けて飛び出した。二人の乗った車は信号が変ったので、後続の車に押されて銀座通りを京橋の方へ向かって走っていった。
すっかり車が見えなくなってから博教はタクシーを拾った。
 
この年、TBS、住友生命健康財団提供の15分番組のドキュメンタリー「生きる」に出演した。

赤城明によりF1ハンガリーグランプリに再び招待される。

また赤城他、7人に現金27億円を貸し付ける。

大学時代の後輩、立教大学相撲部監督・堀口圭一が、母校・立教大学相撲部をモデルにした、映画「しこふんじゃった」で、人気監督となった、周防正行監督を紹介され、交際が始まった。

昭和大恐慌の波の何倍も高いバブル経済の破綻という大津波が日本列島を呑みつくしたていた。
バブルで浮かれた奴等の総てが一夜で借金地獄に落ちた。

そして「金運大明神」と言われた、博教の黄金時代も終焉を迎えた。

池田稔だけではなく、レイトンハウス社長・赤城明、富士銀行乃木坂支店長も延べ4000億円の不正融資を行っていた疑いで富士銀行不正融資事件に関わり逮捕された。

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