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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#15

 1965年、アメリカ軍による北ベトナム爆撃(北爆)開始された、丁度、その頃に博教は25歳になった。
 保釈中、最大の事件は4月23日に父、梅太郎が5、6日床につくとそのまま死去した。老衰だった。享年75(本当は79歳)。40歳まで生きられれば、めっけもんだと思って暮らしている稼業の人だったが、その倍も生きたのである。
 父・梅太郎は、博教にとって「粋」そのものだった。博教は父の背中姿を追った。しかし、他の兄弟分や乾分に比べて野暮ったいと思っていた背中の「姐己のお百」の入れ墨も最期はしょぼしょぼで、お百に叱られた泣いた幽霊も本当の亡骸になってしまった。

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「親父の死はある意味、2度目の死なんだよ。稼業の引退式を大々的にやっただろ。あそこで男としての死があったんだな。あとは余生なんだよ。あの仕事をして死因が老衰なんてカッコいいだろ。俺なんて日本一の死恐怖症だから、せめて親父の年くらいは超えたいね。若い時は激しく生き、老いては静かに生きた。親父は若い頃から逃亡と獄の人生を送ったけど、親父が死んでから、俺の逃亡と獄の人生が始まるんですよ。入れ替わりなんだろうね。最期の最期に留置所で口を割らなかったことを親父は褒めてくれたね」

 収監の日まで博教は人を訪ね歩いた。
 ある日、慎太郎を訪ねて日生劇場へ出向いた。
 重役室で、慎太郎は自著『大いなる海へ』に為書を入れてプレゼントしてくれた。
 博教は、その頃、自分とは全く趣味嗜好の違う、慎太郎のしなやかな都会的ダンデイズムと、思索の深さに裏打ちされた矜持に敬愛の念を抱いていた。   会えば必ず読書の話になった。
そして「自分が、どんな本を読めばいいか」アドバイスを求めた。
 この日、慎太郎は『日はまた昇る』と『地の糧』の二冊を読むように教えてくれた。
 博教は『日はまた昇る』のブレッドに男惚れして二度も読み返したが、『地の糧』は最初の一頁で投げ出してしまった。だが、この『地の糧』は、慎太郎が博教に読めとすすめてくれた本だ。
 自分の方で「読みとれないのかも知れない」と思った。

  話は一年先に。1966年1月3日、南青山の森田政治宅に、結城に縫紋、仙台平の袴姿で年始に行った。
 森田氏に「明後日の昼、そのまんまの格好で来い。神戸に行く……」と言われて、ニューポート・ホテルへ投宿した。 
 翌日、部屋には渋い茶の大島を着た漢が森田氏と向かい合って坐っていた。 博教をちらりと見た。
 顔のところに大きな傷が見える。
「地道行雄だ」
森田氏がそう紹介した。山口組若衆頭。関西きっての驍勇とは知らぬ博教は「百瀬です」と言うと、虚勢を張って睨みつけた。
 そこから森田氏と博教は、地道行雄氏と地道組の面々に案内されて、神戸労災病院へ田岡一雄山口組会長を見舞った。
 ベッドの上に坐っている田岡氏に地道氏が博教を紹介してくれた。
「ほう、これから刑務所に行くんかいな。五年か六年くらい。そりゃ短くていい……」田岡組長は言った。
このときに慎太郎から紹介された『地の糧』を持っていっていた。
どうゆうわけか、幾度読み直そうとしても、途中で投げ出してしまう。
『地の糧』は、自分に向かないと思っていた。本もまた邂逅である。
『地の糧』にふさわしい人間を探そうと思いはじめるようになった。ちょうど、そうゆう時だった。
 組長からたまたま病院に来ていた御子息にも紹介され、
「満は、慶応にいっているので、そちらでいろいろお世話になるかも知れません、何分よろしく」と、組長に挨拶された。
 博教は、夫人からも「満は、東京で下宿していますのでよろしくお騎いします」と言われて、帰る時、お年玉を戴いた。
 博教はいますぐ何かお返しをしたいと思った。
自分に合わぬ本を投げ出すのではない、自分よりいい読者にめぐり会えることを祈るような気持で『地の糧』を、エレべーターの前まで送って来てくれた満氏に進呈した。
 もちろん、石原慎太郎から読むようにすすめてもらった本であることを言い添えた。
「ありがとうございます」
 博教が差し出した岩波の文庫本を満氏は、いくらか恥ずかしそうに受け取った。
 博教は、謙虚でスマートなと慶応ボーイの満氏とは、それきり会ったことはないが、あの『地の糧』を満氏が読んでどう感じたか、いまでもふと気になることがある。

 この夜、地道氏の案内で、三宮のクラブ「窓」に行った。
美女が六人ほど席に着いてくれた。その中に東京で何度か会った大原麗子の友達だった娘がいた。
 地道氏を「頭」と呼んでいる。彼女はすぐに私に気がつき、親しく挨拶した。
「こいつの東京時代の男知ってたら教えてな」
 冗談とも本気ともとれる抑揚のない声で地道氏が言った。  
 暫く談笑しているうちに、
「兄弟、すまないな。本当なら会長と肩並べていられたのに、俺と縁を結んでくれて……」
 地道氏がそう言い終らないうちに、森田氏は立ち上がって地道氏の着物の衿を掴んだ。
「おい、地道。お前に惚れこんじまったから兄弟分になったんだぞ。そんなくだらねえことを言うんなら、ここで縁を切りやがれ」
 森田氏は地道行雄氏の首がぐらぐらするくらい二、三度揺すった。
 昭和39年3月、名古屋の「春日荘別館」で森田氏と地道氏は五分の兄弟盃を交わした。この時、田岡会長は森田氏にこう言ったという。
「地道はまだうちの若頭にしかすぎない。あんたは関東国粋会の会長で、独眼竜の政と若い頃から言われてきたほどの男。地道はまだまだあんたには及ばない。しかし地道の他に山口組を継ぐ者は考えられない。どうか力になってやって下さい。関西に山口組、東海道に錦政会(現稲川会)、関東の日本国粋会が一本に組めば、この稼業での大概のごたごたは解決出来る。これで安心して私はいつでも引退出来る……」
『窓』には、他に5人が同席していた。彼等は地道氏に命を預けている男達だ。地道氏が大声を上げたり、目配せしたりしたら、森田氏も博教もその場で殺られてしまっただろう。
「兄弟、うれしいよ。こんなに思ってくれて」
 地道氏はそう言うと、森田氏の左手を握って、本当に嬉しそうににっこりと笑った。
 惚れ惚れとする笑顔だった。

 その光景を見て「天保水滸伝」が博教の脳裏を過ぎった。
 そして「ああ、こういうふうにやるんだなあ」と学んだ。
 翌日、地道氏と二人で福原の桜筋の「げん直し」という店に行って河豚を喰べた。
「儂(わし)はお前が好きや。今日はどっさりおあがり」
地道氏が「百瀬、これから懲役行くんだなぁ。何年だ?」
「6年行くんです」
「ふーん、短いな。帰ってきたら何するんだ?森田の身内になるのか?」
「いや、私はアラビアのクウェートに行って石油か何かで金を儲けたい」
「そんな夢みたいなこと言うな。俺のところに来い」
「いや、私は誰の子分もイヤなんです。親分ならなってもいいけど」
「面白いな、お前は。よしっ、食べるのはお前、金を払うのは俺」
そう言って腹いっぱい河豚を喰べさせてくれた地道氏は、昭和44年5月15日に突然亡くなった。
その時、博教は秋田に下獄中だった。氏が亡くなったことを知るのは、48年山形の獄であった。

映画のワンシーンみたいじゃないんだよ。逆だよ。映画のほうがこっちのマネッコなんだよ。符丁って言ったら変だけど、芝居がかった台詞廻しって渡世の要所要所にあるんですよ。そういう言葉を腰を据えてホンちゃんで言えるかってのも試されるんですよ。啖呵を切るってことがこの世界の通行手形なんですよ。俺なんかは子供の頃から浪曲、講談、浪花節なんかを聞いてるから、あ、あれだな、って最初っから、ポンポンと言えたんだよな、でもそれもこういう時に学んだんですよ」

 1968年、28歳、逃亡者となった博教が一番つらかったことの一つは行きつけの寿司屋に顔を出せなくなった事だった。しかし、一度も行った事のない店には手配書が廻っていないので、夜になると本箱がくるりと回転して裏側の店が現われる六本木の「貴族院」、キラー通りの「タージ」、渋谷仁丹ビル近くの「深海魚」等に出没した。
「深海魚」の主人、菅野諒は立教の先輩で、彼の金銭哲学に魅せられ、店で会うと何時も夢中で金儲けの話をした。その後、彼はバブル時に一世を風靡する「マハラジャ」の社長となった。 
 さらに数奇な運命は菅野の義理の息子が後に格闘プロデューサーとして名を売り出す川又誠也であった。が、この頃は知る由もなかった。

 ある日、博教と友人の岩上が乗った車がTBS前を右折して乃木坂に向い防衛庁裏に続く坂に差し掛かった時、ラジオから、
「今夜……。東京プリンスホテルの警備員が拳銃のようなもので撃たれて殺されました」というニュースが流れた。
「あれ、俺の友達が殺ったんじゃないだろうな」と、岩上が物騒な言葉を吐いた。
「電話してみろ。その辺で車を停めろ」
 戻って来た岩上は、心配した男は家に居て絶対に奴が犯人ではないと説明した。
 それから何日かして東京プリンスホテルで警備員が射殺されたのは二十二口径の小型ピストルと判った。
 京都、函館でも東京の警備員を殺したのと同じ拳銃で次々と人が殺され、ピストルを持ったまま犯人は逃走していた。日本中が騒然となった。
 世にも名高い永山則夫事件である。

 この事件とは、1968年10月から11月にかけて東京都、京都府、北海道、愛知県の4都道府県で発生した拳銃による連続殺人事件である。
 犯人は19歳の少年で日本犯罪史上に語り継がれる伝説の凶悪犯である。
 1969年の逮捕から1997年の死刑執行までの間、獄中で執筆活動を続け、なかでも1971年に発売された手記「無知の涙」はベストセラーとなった。因みに、ビートたけしは事件当時、新宿のジャズ喫茶「ヴィレッジバンガード」のボーイのバイトで「早番」「遅番」として入れ違いの折に永山とすれ違っていたという。

 どんな密告があったのか、博教はこの事件の重要参考人にされてしまった。
博教の家に一〇八号連続殺人事件捜査本部へ出頭しろとの通知があったがそれを無視した。出ればこの事件とは無関係と判るだろうが、そのまま収監されてしまう。
 連続射殺事件のとばっちりを喰った博教は、事件と全く関係ない事を一刻も早く証明したかったが、アリバイの点で問題があった。殺人があった時間は岩上と一緒だった。
 捜査本部に電話を入れて岩上と六本木近くに居たと答えればたちまちアリバイは証明されるが、岩上は連行される。
 彼は取り調べの中で刑事にカマをかけられ、博教に拳銃を売りに行った夜の事を密告されたと思い、総てを話すかも知れない。拳銃の事がばれればその現物が出るまで留置されるのだ。

 そして、11月、逃走中逃げ込んだに自由が丘のピアニストの恋人の家で週刊誌を読んでいると、恋人の母親が「大変、大変、百瀬さんの写真が出ている」と知らせてくれた。
 急いでテレビの前に行くと フジテレビの『小川宏ショー』の司会者小川宏の後ろに見覚えのある自分の大きな顔写真が貼られていた。
 小川宏が紙を読みながら写真の説明を始めた。
「ももせひろのり、二十七歳、身長は一メートル八十から九十くらい……。眼鏡を架ける時もある……」
 博教の他に二人の男の写真があった。この二人は沖縄と関西で人を殺して逃亡中の者なのだそうだ。博教は先日起こった東京プリンスホテル・ガードマン殺人事件、後にわかるが、連続射殺事件犯、永山則夫に小型ピストル、ロスコーを渡した108号事件の容疑の重要参考人として全国指名手配される事実を知った。
 確かに警察から出頭要請はあったが、まさかテレビで報道されるとは思わなかった。
 凶悪殺人犯の容疑者の顔写真である世間はザワついた。

 皮肉にも、これが博教のテレビ初出演となった。
 
 博教が、その後、テレビに出るのは、33年後のプライド中継である、ここでも「正体不明の怪人」として日本中をザワつかせた。

しかし、事件には全く関係ない。短気な博教はカッとなって「写真の三人を見た方はこちらにお電話下さい」という番号のダイヤルを回した。
「今、公開捜査見てるんだけど、俺、百瀬だよ。わかんねえ女だな、そこに俺の写真貼ってあるだろう。小川宏出せ。言いたい事あるんだよ。出られない。馬鹿野郎、いい加減な事言うなって言いたいんだよ。お前じゃわかんねえよ。もういい」乱暴に切った。
 とにかく、この事件で百瀬博教の顔は全国に知れ渡ったのである。
 その後、逮捕された永山則夫と博教は刑務所の留置場ですれ違った。

 「テレビに初めて出たのが、あの永山則夫と間違えられたっておモクれーだろ。笑っちゃうよな(笑)だけど、当時は俺は真っ青だよ。全国指名手配となったら交番の前なんか通ってられないですよ。俺は今でも目線がキツいと言われるけど、これ以来、四六時中、周囲を警戒する毎日で習慣がついたから、こういう目つきになっちゃったんですよ。全部、永山則夫のせいですよ(笑)」

 今や、この家にこれ以上世話になる事は出来ない。
「大丈夫?」と心配してくれる恋人の母親に、これまでの礼を告げた。
 ダッフルコートを着て外に出ると、田園調布駅まで歩いた。
こんなときに隠れ家が欲しかったが、金が無かったので借りる事は出来なかった。
 全国指名手配となった事で、以前にまして、捜査網は厳しくなった。

 この事件から、一ヵ月後、キラー通りの「タージ」で二人の与太者に絡まれている小柄な男を助けた。
 その人は、服飾デザイナーの小林秀夫と申します、と言って深く礼を告げた。
 翌日、何処にも行く所がないので、昨夜初めて会った小林の原宿駅前のマンションを訪ねた。小林は不在だった。そこで留守番をしながら洋書を読んでいた青年と邂逅した。
「なんの本」「furniture」「ふぁにちゃあって」「家具の事です」
 これが、出石尚三と博教が初めて交わした会話だった。
 紅茶を出してくれた出石と毎日、読んでいた三島由紀夫の小説について喋った。出石も三島が好きだと言った。
 逃げるのが仕事の博教はゆったりと相手をしてくれる出石と出会えて嬉しかった。
「百瀬さん、家に来ませんか」
 彼の家はNHK放送センターの近くの神南町のアパートの一室だった。
 ドアを開けるとボブヘアの目の大きな女性が居た。
大きな提灯が天井から下がっていて、長押には黒塗りの下駄が飾ってある洒落た部屋でゆっくりと食事した。
 食後、博教はこれまでの経緯を話すと、
「百瀬さんの事を信じます」そう言って出石は博教を泊めてくれた。
 出石夫妻がセミダブルのベッドに寝て、ベッドと冷蔵庫の隙間に百二十キロの博教が眠った。愛し合う二人には悪いと思いながら、博教は翌日も、出石夫妻の優しさに甘えて彼の部屋に泊った。
 博教が出石の部屋に泊って四日日の大晦日の夜、出石夫人の姉上が急遽上京して、妹の部屋を訪ねて来た。博教は食事を御馳走になっていたが、大急ぎで飲み込み箸を置くと、紅白歌合戦の真最中、挨拶もそこそこに出石家を辞去した。
 その後、博教は二度と出石家に行かなかった。再び戻る事は危険だし、これ以上大迷惑の続きを演じる自分を許せなかったからだ。
 博教はさよならの後で出石がくれた「鏡子の家」上下二冊をバッグに入れて、奥沢神社近くの駐車場に行った。駐車場の片隅に蔵しておいた寝袋に入って、九品仏浄真寺の一番奥の堂宇の裏で寝た。
 真夜中に誰何された場合を思って、写生旅行をする美大生を装って目覚まし時計とスケッチブックをわざとらしく寝袋の枕元に置いた。
 二時間ほどで目覚めた博教は寝袋を小さく畳んで抱えると、まだ明けやらぬ自由が丘まで歩き、東横線に乗って横浜に向った。
 宛てなど全くない新たなる旅立ちだった。

 出石は、その後、出世して「エル・ジャポン」の編集長となり、服飾評論家として世に出た。

 出獄後、博教は出石と再会を果たし、親しく交流した。
 1989年5月29日。青山スパイラル・カフェで行われた「出石尚三の新たなる旅立ち」に博教は出席し、出石に匿われた日々と、あの日の新しい旅立ちについて語り、最大限の謝意を込めて挨拶した。

 2003年8月19日――。
 私は文藝春秋のサロンで週刊文春の『著者と60分』のコーナーで、女性インタビュアーに上梓したばかりの『お笑い男の星座2・私情最強論』について大いに語っていた。特に最終章にとりあげた「百瀬博教」は相手は知らないものと思って熱弁していた。すると「実は、私、百瀬博教さんに子供時代におもちゃを一杯買ってもらいました。豪快に棚一段全部、買ってくれるので逆にひくくらいでした」と逸話を語り、「私、出石尚三の娘なんです。」と自己紹介した。
 百瀬博教話は廻り廻って偶然を引き起こすのを取材中に何度も経験した。

 時を戻そう。

 この年、石原慎太郎は小説家から政治家への転身を果たそうとしていた。
博教は、兄事する慎太郎を応援するため、近々下獄せねばならぬことを承知で「石原慎太郎の会」に入会した。
  第八回参院選に出馬する数ヵ月前のこと、博教は事務局長の飯島清氏と二人で何度か石原氏の「時事講演」を聴きに行った。
 会場の日比谷公会堂も満員だった。
壇上に石原が登場すると、割れるような歓声が響いた。
 教養に裏打ちされた美男子は輝いて見えた。氏が喋り出すと場内は森と静まり返った。

 石原慎太郎の参議院全国区出馬が決定的と噂され出した或る夜のこと。
博教は逗子の慎太郎宅へ電話した。
慎太郎は多忙で、中々連絡の付かない人なのだが、この夜は取材で旅していたベトナムで病気に成ったとかで旨い具合に家に居て一度で連絡がとれた。

 その病気とはベトナムで、罹患した肝炎であり、当時、日本一の流行作家の初めての大病であった。

  翌日、慎太郎が指定した東宝劇場へ出掛けていった。
ここで、慎太郎は、文士劇『日本のいちばん長い日』に出演中だった。
 狭い通路を抜けて、舞台裏に出ると暗く埃りっぽい場所で台本を読んでいる慎大郎の姿が見えた。
 博教に気付いた慎太郎氏は笑いながら手を伸ばした。将校用の軍服姿で、軍刀を佩いていた。
 選挙について喋っていると、博教の後ろで係が合図したらしく、
「ひろ坊。舞台が始まるよ。二十分ほどで劇は終るから楽屋に来てくれ」と言い客席に行こうとすると「君が見ていると思うと恥しいな」と柄にも似合わぬ事を言った。
 舞台が動き出したので、あわてて裏から客席に降りて一番後ろに立った。場内は満員だった。幕が上がると慎太郎が中央に立って、軍刀をしっかりと振っていた。その横には、中々態度のきまらない将軍があり、ややあって、思いつめたように立っていた慎太郎演ずるところの井田中佐は将軍に最后の決を迫るが、将軍は切ない心情の意を含めて、中佐に同調出来ぬとキッパリ言い放つ。
 瞬間、漫画家加藤芳郎氏扮する畠中少佐がそこに飛び込んで来る。
 少佐はその場の雰囲気から将軍が自分達と一緒に決起しない事を察する。
 再度の決起を迫る。が、断わられる。断われるや腰の拳銃を抜き、大佐の止める間もなく将軍を射殺する。劇中最高の見せ場で、加藤芳郎の演技する動作がコミカルなのと、拳銃の擬音の火薬が湿っていたのか銃声がチャチなので場内は爆笑の渦である。
 そこに梶山季之の演じる反乱軍中佐が登場する。
 梶山季之、演ずる反乱軍中佐に向って慎太郎が、
「東部軍はどうした。救援に来ないのか」と尋ねると、
「参院は駄目だ。冷えきってる」と答えた。
参議院選挙に出馬する慎太郎に合わせた梶山の考えたアドリブのギャグであった。
 反乱軍である石原慎太郎演ずる中佐以下は、総ての望みを断たれる。
そして、翌日、玉音放送と伴に大日本帝国が連合国に無条件降服する事を知り絶望する。
 大詰となり石原慎太郎、加藤芳郎、両名優がエプロンステージ中央に進んで、大日本帝国萬歳を唱すと、加藤は拳銃で頭を撃ち慎太郎は軍刀で割腹して果てる。
 慎太郎が軍刀で腹を突き刺し自決する時、博教は彼の名演技に、
「当選確実!」と、半畳を入れた。
 慎太郎さんが倒れると舞台は暗点となり芝居は終った。
 舞台裏に行くと、引き上げてきた慎太郎氏とうまい具合にぶつかった。
一緒にエレべーターで楽星に上った。扮装を脱いで、湯衣に着替えた慎太郎に「当選確実」の半畳は聞えましたかと訊いてみると「いいや」と言い、「そう言う掛声は大声でやってほしい」と、言って笑った。
 東宝劇場を出て、銀座の石原慎太郎の会事務所に向った。
「全力で応援します。当選は間違いないでしょう。四十代後半は大臣ですね」
 博教がそう告げると、慎太郎さんは不満だったらしい。
「いや、総理になる」と言ってから、徳川夢声曰く「慎ちゃんの笑い顔はオードリー・ヘップバーンそっくりだ」の笑い顔で博教の顔を覗いた。

「この頃の石原慎太郎のキラキラとしたダンディズムったらないね。小説を書けばベストセラー、映画に主演して、舞台に戯曲を書き下ろして、八面六臂の活躍ですよ。でも、さらにその上に裕次郎が人気絶頂で君臨しているわけさ。兄弟で出世レースをやっているみたいだったね。弟に出来ないことをやる、自分の領域を広げて見せるって気持ちもあったでしょう。選挙戦は俺は彼に当選してもらいたいから本気で神輿をかついでたよね。ベトナム戦争を現地取材して政治意識が変わったなんて言ってたけど、政治も慎太郎の欲望なんですよ、『てっぺん野郎』なんて佐野眞一の本が出たけど、当時は俺は冗談だと思ったけど、最初っから総理になりたかったんだろうね、ま、なれはしませんけどな」

  保釈中だった、博教は、もうすぐ下獄しなければならない身であった。
 その覚悟が出来ていたが事情が変わったのは、母、菊江の癌だった。
 母、菊江の具合が悪くなったのは一年前だった。
 国立の病院に人院したが、どうにも良くならなかった。
或る日、博教は懇意にする「石原慎太郎の会」事務局長の飯島清氏に、菊江の病気について話した。飯島氏の御母堂も、菊江と同じ病で亡くなったそうだ。
 そして、ありとあらゆる医師、伊勢神宮まで行き、禊して、神楽まで奉納したが母親は助からなかった。と、飯島氏は話てくれて、博教に厚生省を通じて、日本一の癌専門医を紹介してくれた。
    それでも手遅れだった。
 博教に収監状が来ていたので下獄しなければならなかったが、このまま下獄すれば余命いくばくもない菊江と、この世の別れになってしまうのである。
 <母親の、いまはの際に立ち合いたい。>
博教は、収監状を破って家を出た。

博教の生涯で最大の逃亡が始まった。

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