『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#21
1976年。
出獄した百瀬博教は正業に就くことはなかった。
かつて用心棒として勤めた、赤坂ニューラテンクォーターには、客として、あるいは裏方の馴染みとして、ときどき顔を出していた。
娑婆に戻って半年後、偶然、勝新太郎が客席に居た。
「お久しぶりです。先日、ニューヨークから戻って来ました」
その昔、錦政会の大幹部だった井上喜人から教わったジョークを博教が飛ばすと、
「長旅だったね、御苦労さん。何でも好きなジュース飲んでくれ」
と勝新太郎は応えて手を伸ばし、強い力で握手してくれた。
「まあ、ここへお坐りよ」
と言うので同席し、オレンジジュースを御馳走になってから、席に残して来た恋人を呼び勝に紹介すると
「凄いんだぜこいつは、よしと思ったらとことん突進するんだ。俺は昔から百瀬が大好きなんだ……」と褒めてくれた。
店には常に色紙が置かれていたので色紙をもらい、恋人の差し出した色紙に座頭市の絵を描き、その横にサインしてくれた。
勝新太郎は何時も、博教の心を掴んでいた。
以前の保釈中も博教が店に顔を出すと、勝新太郎と若山富三郎の兄弟は必ず、博教の人となりを面白がり、声をかけてくれていた。
しかし、6年半の獄を出ると、あからさまに風向きが違う風評が耳に届くようになっていた。
博教は勝新とは良好であったが若山に対しては苛立っていた。
1976年のある日、博教が女と車に乗っていると赤坂の田町通りを越した辺りで、若山富三郎が歩いているのを見つけた。
博教は車を停めさせて、黒いミンクのコートを着ている為に、熊みたいな背を見せて歩いて行く若山の後を追った。
どうしても若山とは話をつけなければならない件があった。
博教が収監状を破って保釈逃亡していた頃、赤坂見附駅前の焼肉店で食事を済ませた若山富三郎が「百瀬は来るか」と尋ね「随分鼻息が荒かったですよ」と店の主人から聞いていたからだった。
その話を聞いたら、<不良が舐められてはたまらない>と思い立った。
すぐさま、月刊誌『明星』で調べた若山の京都の住所にはがきを出した。が、いつまで待っても、若山から何の連絡もなかった。
若山富三郎は勝新太郎の実兄である。
映画界では強面の猛者としても知られている。
元々柔道有段者であり、時代劇では殺陣の名手、親分肌で取り巻きも多い。
実際、本人は短気で怒ると手が出る。撮影所では「若山組」と呼ばれるほどの武闘派として知られていた。それは守るべき面子があるということだ。
ふたりの間に不穏な空気は7年前からあった。
警視庁の留置場で博教より十歳ほど上の男が「百瀬さん、富さんが貴方のこと探してましたぜ」と声を掛けて来た。
男は京都から押送されて来たと言い、京都東映撮影所では随分と顔が利くらしい。
「若山富三郎が、何だって俺のこと探してるんだ」
「よくは知らんけど、貴方、本郷功次郎と何かありましたでしょう。その件で。本郷のケツ持ちしている富さんのこと、あんさんが『いつでも来い』みたいなこと言ってると聞いて怒ってるのとちがいますか」と言った。
博教は、留置場から、そのまま秋田に送られるので若山富三郎とはそのまま会うことが出来なかった。
彼がまだ誤解したままだったら、そのときは倒すしかない。
博教は腹を決めていた。
「若山さん」
振り向いた若山は、昭和4年の生れだから、博教より十一歳年長だ。
「本郷の件で誤解しているらしいが……」
口疾に喋る博教の話を聞き終ると若山はニッと笑った。そして、
「本郷とは、あれ以来会っていない。あんたにはすまないことをしたと周囲の者にも言っていたんだ……」
黒いコートの中の大柄な顔を本当に申し訳なさそうにした。
〈判ってくれればそれでいい〉博教が黙った。
「痩せたな」
「…………」
「何してるんだ。電話してもいいかい」
氏が後ろに待たせていた女の子から受け取って差し出した手帳に、博教は電話番号を書いた。
「勝新太郎さんによろしくお伝え下さい」
二人は握手して別れた。
「こりゃあ役者が違いますよ。俺はまだまだヒヨッコだったね。若すぎたから、台詞ひとつでメロメロにされちゃう。あの頃の映画俳優は映画会社の中にも、撮影所の現場でも序列があるんですよ。誰々のところの若い衆とか、まるまる部屋の見習いとか、任侠風に言ってみたりしていたんですよ。芝居の世界観が現実と地続きになるというかね。だから余計に派閥意識や縄張り意識が強かったんだよ。例えば、若山組と勝新組は人脈が被らないようになっていたりね。山城新伍は若山組だけど勝新の取り巻きにはならなかったようにね。それを言えば俺は俳優ではないけど、精神的には裕次郎組のものだしね。役者も不良も男の看板を売っているわけだから、常にそういう一触即発の緊張状態ってのはあるんですよ」
この年、高校時代の恩師・能村先生が俳句とエッセイの名手であることを知り、それを機に俳句本に猛然とのめり込んだ。
高校時代には、俳句や短歌をやるのは「女」だと想い、国語の授業もロクに聞くこともなく、心底、先生を馬鹿にしていたのだが、20年後、ふたりは師弟の関係を築くことになった。
この頃、市川の「麻生珈琲」でアルバイトをしていた小野里稔と邂逅した。
小野里は1956年生まれ、博教の地元・市川学園の後輩で、氏は後に、製作会社IVSを経てイーストに入社。数々のテレビ製作の後、1998年に創刊した雑誌「Free&Easy」が国内外で注目を浴び、男性ライフスタイル誌の分野でカリスマ的存在になる。
「Free&Easy 」に博教は連載を持ち、さまざまな企画や特集にも掲載された。小野里は2016年春、イースト・グループより円満独立し、Free&Easyをアップグレードした「Hail Maryマガジン」を創刊した。
小野里の存在は、後の博教のテレビ人脈の端緒となった。
「百瀬さんは市川じゃあ知らない人が誰もいない不良だったから、一度会ってみたかった。でも当時の百瀬さんは柔道のミューヘンオリンピックの銀メダリストの西村さんを連れて町中を闊歩していたから、怖いもの知らずだったよ」と小野里は言っている。
──2000年代、私は市川の「麻生珈琲」に氏を助手席に乗せて、東京から何度も通った。珈琲の豆を麻袋に入れてお土産に持ち帰ることもあったが、その帰り道に警察車両に止められ車内捜査を受け、毎度、麻袋の中まで調べられた。
「あんだけ頻繁に止められるのは、やっぱり俺が内偵されてるんだろうな、東京から市川まで仕事でもないのに週に何度も往復してんだもん、怪しいよ。俺らが何かを運んでいるって思ったっんじゃない? 余計なお世話だよな。小野里とは最初、店で相撲をとったんですよ。そこから始まって、今、イーストの本社が家からあるいて5分のところだから、社長とも懇意にしてもらって、すっかりテレビ業界も板についたもんだね」
──博教の部屋には近所にあるイーストの担当ディレクターが訪問することが多かった。取材時には博教のテレビ・ラジオのレギュラー番組が3本もあった。
この年、6月に入って、博教は新たな祭り事を企画した。
それは、毎年6月7日に近い日曜日に開催される鳥越祭りに際して、浅草鳥越神社の氏子として、母、菊江を追悼するために、『鳥越祭りを楽しむ会』を主催したのだ。
この祭りのために百瀬と染め抜いた半纏を30枚あつらえた。
この年を機にして、鳥越祭りを楽しむ会は年々と規模を広げて、博教の人脈が一同に介する場所になっていった。
百瀬博教の知り合いで集められた人々は、大方が祭りの由来も知らず、横の繋がりもなかったので、祭り会場では、皆、困惑し、時間を持て余すのが恒例であった。
また、PRIDEの開催日と鳥越祭りの日時がバッティングして、多くの関係者が渋々、鳥越祭りに出席していたことがあったが、皆、困惑している様子が私にはありありとわかった。
この当時の記述が百瀬本には極端に少ないが、「東奔西走し主に不良債権回収の旅をしていたが、今だ機が熟せずだったな」と博教は語っている。
与党系総会屋である「経営者保護協会」を設立したり、八重洲画廊設立などの痕跡はあるが、今の所、本人の証言はない。
八重洲画廊も故人への販売ではなく、企業に向けて絵画のレンタルが中心のようで、これも総会屋系の仕事ではなかったかと推察される。
また日本テレビのプロデューサー・細井邦彦との交流の記録は残っている。
獄を出て三年目の昭和52年7月、参議院議員選挙地方区の菅野儀作候補者の応援のために環境庁長官・石原慎太郎が市川にやって来た。
慎太郎は、環境庁長官として水俣に行ったりして多忙であるが、また公務中に抜け出しテニスの練習をしたりして世間から非難囂囂の折であった。
博教は久しぶりに妹の長女、貴子を連れて会いに行った。
にこにこ顔で迎えてくれた慎太郎と立ち話をした。貴子が妹から預ってきたハート型のチョコレートを渡すと、氏はチョコレートを背広のポケットに蔵いながら、
「ヒロ坊は顔から険が取れて、以前より若々しくなったな」と言った。
「この頃は、もう『僕の刀』に取り掛かっていたから、連日、寺小屋学級ですよ。マジメに原稿用紙に向かってたよ。俺は獄を出てから正業には付いていないわけですよ。ハジキの密輸で捕まったわけだからマトモな仕事は出来ないだろうと、でも作家とか詩人にはなれるんじゃないかと思ってたね。前にお遊びで『自作自演の喜劇』って、自家製本は作っていたから、製本は問題なく出来る。でも、今度は内容を問われるわけだから、推敲を重ねて書きましたよ。カッコつけて言うけど自信もあったよ、俺みたいな体験をしてきた奴ってなかなかいませんよ」
1979年、8月4日の日付で、博教は自伝的エッセーの短編集・私家版『僕の刀』上梓した。
24歳の時に『自作自演の喜劇』を自費出版しているのでデビュー作とは言えないが、2冊を読み比べても、獄を経て、ここまで人の文章が変わるのか、と思えるほどの成熟ぶりが確認できる。
第一章で抜粋したが、特に「僕の刀」は、後に週刊文春に連載した『不良ノート』でも転載されるほど作家の原点が詰まっている。
この本の前書きを石原慎太郎が「『ボクの刀』の序によせて」とタイトルを打ち、以下のように書いている。
百瀬君の著書の序文を書くのはこれで二度目になる。一度目は昭和42年に百瀬君がヨーロッパとアラビアのクウェートへ旅した話を書いたエッセー集『自作自演の喜劇』を出版した時である。
今も同じおとなになりそこなった坊やのような風貌で、彼が一度目の序文を貰いに来たのは、私が文士劇『日本でいちばん長い日』に出演していた東宝劇場の楽屋だった。そこで私の「雲の上に向かって起つべし」という題の序文ならざる序文を書いた。
最近、多忙にかまけて、彼と会う機会も少ないが、久々に百瀬君が、私の旅行中に事務所を届けておいてくれた『僕の刀』のゲラ刷りを読んで、間のブランクを感じさせない昔ながらの「ヒロ坊」のイメージが感じられて嬉しかった。
僕の刀の冒頭に自分の親父さんのことを書いているが、
「40歳まで生きればめっけもん……」
という江戸っ子の親父さんのことを、彼がいかに愛していたか、そして、その親父さんの血が彼の体の中に脈々と流れているかをかんじさせらられ微笑ましかった。
彼は、一般的に、私の他の多くの風変わりな友人と同様に、一寸理解されにくい種類の人間ではあるが、この僕の刀に表現されている彼の実像を、私は頭のどこかで強く愛している。
昭和54年8月4日
衆議院議員 石原慎太郎
2作連続で序文を書くというのは異例なことである。
当時の石原慎太郎という肩書を考えても不可思議だ。
断れなかったのだろうか?
いや、むしろ「書かされている」と推測するほうが理にかなう。
また、この本のなかで綴られる「僕の刀」「石原慎太郎さんⅠ」「石原慎太郎Ⅱ」は、丸々、博教が1992年から連載した『週刊文春』の『不良ノート』でトレースされている。
「私の三島由紀夫」「三島由紀夫の死」「相撲部設置」なども、ほぼ同じ原稿である。これらは当時、週刊文春の編集長だった花田紀凱のリクエストで掲載されたのであろうか?
この本のあとがきも博教の多面体の別の一面を伝え今も興味深い。
博教と同郷の歌人でアララギ同人、そして盲人でもある石川福の助が書いている。
〈それは昭和五十二年の蒸し暑い或る夏の夜であったと記憶する。今から二年前の事である。
すでに視力の明を失くしていた私は家人の手に縋って近くの路上を歩いていた。突然、自転車の上から声をかけて呉れた方がある。私はその呼び掛けに驚きもしたが、兎もあれ軒下の片隅にまで寄って話し合いをしたのであった。
その方が百瀬君であり私との交流の第一歩がここに始まった訳である。
君は独房の中にあって、当時毎日新聞に載った私の歌集紹介の一文を目にとめて呉れたのであった。そこに抄してあった私の歌の一々をノートに書き留め居られたと云う。新聞には私の写真を掲げてあったので君は一目であの人だと判ったとも言った。君の棲居と徒歩十分ほどの距離に私の家があるので、君は昔から私を時々見て知っていたが、私が歌をやっているとはそれまで知らなかったそうである。その様な思い出を懐しく灯影の下で話し続けられて止まなかった。
爾来月に一度か二度は多忙の閑を見出しては私の家を訪ねてくれる様になった。共に東京下町に生を受けて居たので話のウマはよく合った。時には盲人の私への手助けから安藤鶴夫の随筆や久保田万太郎の俳句など声を出して読んで下さったのである。
百瀬君は思うに任侠の士である。従って猛き一面を持ち具えねばならぬこと言うを俟たない。併し私の前に立つ君は前記の如く終始優しさに一貫していた。この本性は矢張り父君の血から受け継がれたものと堅く信じている。
昭和三十年頃、私は微視力の身ながら東京への勤務を続けていた。市川駅を出て家にまで至りつくその足元は可成り危ういものがあったろう。通り合せた父君が折々私の手を曳いて家の近くまで導いて下さった情を忘れ去ることが出来ない。父子二代に亘るこの不思議な縁を何と解してよいであろう。
私はその辺に深い思いを致すのであった。
以上拙ない文を以て跋とした次第である。時に昭和五十四年お盆の一夜。
(アララギ同人 石川福之助〉
半世紀近くも前に書かれたこの一文に、博教の生い立ち、父子の関係、性格、成長、文武両道を余儀なくされた類稀な人生の原点が語られていると言えまいか。
この連載はゲラである。
この時代はまだまだ取材しなければならないが、とりあえず話は進めていく。
つづく
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