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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#3


第一部 少年時代


柳橋の代地河岸

 百瀬博教は昭和15年(1940年)2月20日に産まれた。

 父、百瀬梅太郎が54歳、母、菊江が31歳の時であった。
 昭和8年生まれの7歳年上の兄、孝治(たかはる)と同じく、東京は台東区の総武線浅草橋駅に近い柳橋の代地河岸にて誕生した。
 そして、その7年後に妹、圭子が生まれることになる。

 百瀬博教は3人兄弟の次男であった。
 博教が生まれた時、百瀬家は、父母、兄、そして曾祖母の5人で木造の2階建ての一軒家で暮らしていた。

昭和15年──。
 北京郊外の盧溝橋で勃発した日中戦争は一向に解決の兆しがなく日独伊三国軍事同盟に調印した日本は、米、英、仏との対立も深めていった。
 国内では、挙国一致体制が確立し、戦火が日々の暮らしに忍び寄るなか、国民生活の統制がますます深まっていった。

 博教が生まれ育った柳橋は、江戸時代から蔵前の米相場の札差し相手に栄えた花柳界であり、戦前は金回りの良い家が立ち並び、暮らしぶりは豊かさに溢れていた。そのなかで町に睨みを効かし「代地の親分」と呼ばれていたのが父・梅太郎であった。

 「父は明治21年、東京の築地の生まれで40歳まで生きられれば、めっけもんだと思って暮らしている稼業の人だった。父の太腿と腕には、槍と刀の傷があり、背中には<姐己(だっき)のお百>の彫り物をしていた。父は破落戸(ごろつき)を斬って甲府の獄で2年半暮らした。下獄した時、父は19歳だった」
 と百瀬は書いている。(不良少年入門)

 博教の父、梅太郎は生来の暴れん坊で17歳で橋場の金町一家の顔役・坂本直吉の乾分と成った。
 梅太郎は生来の度胸と器量で30代にして親分の直吉の跡を継ぎ、金町一家の総長まで登りつめた。
 しかし、直吉が亡き後、直吉の後妻であった元・赤坂芸者、坂本ふみと恋に落ちてしまった。
 坂本ふみは梅太郎より11歳も年上であった。
 籍は入れなかったが同居した。
 十一歳上は、稼業の中でも相当な姐さん女房であった。
 そして、この親分、乾分の世界ではあるまじき、許されざる恋愛を咎められ自らの責をとり、金町一家を抜け亀戸に移り、当時、東京で最も縄張りの大きかった生井(なまい)一家へ入り、柳橋を縄張り(シマ)として分け与えられた。

 生井一家は数々の親分を輩出し、集合離散の後、後に関東の一大組織となる「国粋会」となる。
 職業柄、梅太郎は何度も殺されそうになったが、度胸と機転で生き伸びて、昭和7年、四十五歳の時、22歳も年下の菊江と初めて結婚した。
結果、坂本ふみと菊江は同居した。

 百瀬博教の母・菊江は若気の至りで20歳も年上の梅太郎と一緒になったが、普通の暮らしとは程遠く、随分と苦労が多かった。

 そもそも家族の関係が入り組んでいた。
 博教の母、菊枝はもともと坂本ふみの血筋であり、親分、直吉の孫に当たるのである。
 つまり、坂本直吉の後妻であった「ふみ」は坂本直吉との間に子供が無かったので、直吉の妹、坂本カメを養子とした。そして、菊江の父・雄次郎を娘婿に貰ったのである。

 この説明も文章で読んでもまずわからないので、その関係を整理したのが、下記の図である。

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 ここで、さらにややこしくなるのは、博教の曾祖母にあたる坂本ふみは、自分の夫の乾分であった梅太郎と結ばれ恋人関係になり、その後、一度は別れていたが老いて身寄りがなくなり、その余生を梅太郎の元で過ごしていたのである。
 
 つまり、坂本ふみは百瀬家では“お婆ちゃん”と呼ばれていたが、昔は父の愛人であり、菊江にとっての祖母であり、博教には曾祖母なのである。

 この実に“複雑な関係”を子供時代の博教は知ることはなかった。

 百瀬博教本を読む上で一番、解読出来ないのはここである。
 私は苦労を重ねつつ、最終的に上記の図を作成し、百瀬に示して解説を求めた。

「俺が柳橋で生まれたのは大きいなぁ。当時はまだ談志がよく言う江戸の風も吹いてたし、花柳界だったし何が粋か、何が粋じゃないかの概念はあったからねー。しかも大家族だろ、親父の乾分も一杯出入りしてるわけだし、おっかねー大人に揉まれた生活だったよ。家系図は、まあ、絶対にわかるわけねぇよなー。今まで俺が書いてきた本でも家で呼ばれていたように、「ふみ」を『婆さん』と書いているから。どんな老舗出版社の校正の人でも、ずーっとこの関係が誰にもわからなかったから俺も説明すんのに困ってたんだよ、しかしオマエはよくここまでわかったねー。普通の人には、ふみが親父の愛人なのか、俺の祖母なのか、曾祖母なのかわかんねぇだろ、絶対。だいたい、こんな関係の家族が一つ屋根の下で一緒に暮らしているところが信じられねぇよな!」

 と私の前で百瀬は笑い飛ばしている。
 (以下、太文字が百瀬博教の言葉になる)

 父・梅太郎は一家の総領息子であるはずの長男の孝治よりも、次男の博教を可愛がった。
 梅太郎は、家を出ると外食、凧揚げ、投網、寄席、浪曲大会、銭湯、海水浴、葬儀、競馬場、動物園、何処へ行くのも、幼い博教のほうを連れて行った。
 博教が印象的に覚えているとは、梅太郎が博教を連れていると必ず「お孫さんですか」と質問され「いや、子供です。54の時に出来た」と答えると、決まって「いやあ、ご立派、ご立派」と言われていたことだった。
 幼い博教は、なにが「立派」なのだろうと思っていた。大人が言う「立派」とはどういう意味なのだろうと。
 梅太郎が、博教をここまで可愛がったのも博教と孝治の性格の違いによるものだった。
 梅太郎は、第一子でありながら、つげ口屋で内弁慶の長男・孝治を《なんでこんなハンチクな野郎が生まれたのだろうと》と常々嘆いていた。

ハンチクとは中途半端の意味である。百瀬博教の常套句だ。

 2月20日の午前五時三十分頃に、前日から病院にいた母・菊江、祖母・坂本かめが、長男の誕生を待つ、柳橋の百瀬の家へ電話してきた。
 誕生したばかりの博教の顔を覗き込んだ、かめは開口一番、
「お前は何と醜男なんだろう」と言ったらしい。
 その7年前、百瀬家の長男の孝治の出生を誰より喜んだのは、曾祖母の坂本ふみであった。そして、ふみは誰よりも兄弟のなかで、長男の孝治のほうを可愛がった。

そのため、博教と坂本ふみは後に再三対立することになる。

「この心理は普通の人には訳わからないだろうなぁ。婆さんは、最初の旦那である、直吉との間にも梅太郎の間にも子供がいなかったろう。婆さんは人生の晩年に自分が惚れた、かっての恋人の子供でもあり、自分の孫である、菊江の長男の誕生を目の当たりにして、もうそりゃあ溺愛したんだろうな。子供の頃はわかんなかったけど、兄貴は性格もおとなしいからなー。その代わりに俺はあの婆さんの目の敵だったよ、ホント、俺の宿敵!」

 余談だが、後に私は百瀬の兄・孝治に引き合わされることになる。ふたりの風貌は全く似ていなかった。兄は謹厳実直そうに見える外見で、弟である百瀬に対し敬語か丁寧語で喋り、常に怯えた様子で接していた。
 また百瀬は慣れた様子で、そういう兄を「どうした?」「ちゃんと話せないの?」「俺が何か怖いのかい?」などとからかい続けたのである。
 その上下関係は、兄弟関係の逆であった。

 父・梅太郎は口で叱るより、手の方が早かった。
 博教は、父が言いつけた用件を聞きなおした若い衆は、その場で木刀で背負(しょわ)わされるのを再三見ていた。
 背負わされるとは、殴られることである。
 梅太郎の怒りは、瞬時ではあったが理不尽はなかった。
「片時も気を抜いてはならない」
「冷やかしは駄目だ」
 このふたつは父の口癖であり、組を構える漢の稼業はこのシンプルなルールで成り立っていた。
 そして殴られないようにするためには「はしっこい」子供でなければならなかった。「はしっこい」とは、目先が効いて場の空気をいち早く読む能力のことである。

 余談だが、私は、この江戸弁の「はしっこい」という言葉を上京してから初めて聞いた。
 今は聴くたびに師のひとりである高田文夫を想い出す。何故なら高田文夫は幼年期の自分を語るのに常に、この「はしっこい子供」と表現するからだ。

 博教は、その「はっしこさ」については人の誰よりも抜きん出ていた。
 それは後に、あらゆる窮地で身を助くこととなる。

 さらに博教が子供の頃から抜きん出た能力は他にもあった。
 博教は、後に「想い出に節度がいない」と評され「過去偏執狂」と名づけられるほどの驚異的な記憶力の持ち主となっていくが、最も古い記憶は3歳の時からある。

 「俺は勉強はできなかったけど記憶だけは自信があるよ。よく三島由紀夫が生まれた時、産婆が使った盥(たらい)まで覚えているっていうでしょ。それはホントかどうだかわかんねーけど、俺の場合は昔から全部、カメラに映したように細部まで記憶があるんですよ。いや動画だからビデオかもしれねぇなー。幼い時のほうが細部まで見える。うーん、喩えて言うと画質がイイって感じだな。そういう人は、偶にいるんだよねー。でもそういうのはたいがいホラ吹きか小説家だね」

  実際に百瀬と行動を共にすると何度もその記憶力の証明に立ち会った。
一度会っただけの人でも出会った場所や顔や服装を完全に覚えているからだ。
 「君と初めて会ったのは……」から朗々と続く想い出語りの克明さに、言われた人は皆、一様に驚いていた。

 ちなみに映像記憶は写真記憶、直観像記憶ともいう。眼に映った対象を全て映像で記憶する能力であり学術的に証明されている。
 谷崎潤一郎や三島由紀夫や画家の山下清が、その能力者であったとされている。芸能人にも数多く、私見では松村邦洋、米粒写経の居島一平、霜降り明星のせいやなどは該当すると思われる。

 博教は、自分が幼児の時代、走りっこが大好きだったことを覚えている。
 柳橋の家から近い総武線のガード下をくぐり抜け、次のガードを抜けて戻ってくる一周40メートル位を金太郎のはらがけにショートパンツ姿で何十周もした。
  百瀬家につとめる女中の「照る」が手を打ち、おおはしゃぎで声援を送るので、いつまでも走るのをやめなかった。
 また、裸で柳橋に向かって3歳児の博教が走っている。「お待ちなさい!」と博教を照るが追いかける。お風呂嫌いの博教を無理やり行水させようとしたので逃げ出したのだ──
 そんな映像が長じても記憶の片隅に残っているのだ。

 追われても、追われても、誰にも捕まらず駆けてゆく、この「逃亡」の記憶こそが百瀬博教の原体験だ。

「逃亡」という言葉は博教の人生の軌跡を追い続けた。

 博教が物心付いた頃、父も母も逃げていた。
 博教が4歳になる直前に父、梅太郎、母、菊江は乾分の起こしたダイナマイト傷害事件を教唆したとして逮捕状が出た。
 ある日、蔵前署の刑事が二人、柳橋の家にやって来た。
「親爺さんいるかい?」
「梅太郎なら二階に居ますよ」と坂本ふみが答えた。
 大きい方の刑事が、もう一人を置き二階へ上った。
 梅太郎は、警察はダイナマイトの件で逮捕に来たのだなと察知し、
「どてら姿じゃなんですから着替えます。廊下に出ていておくんなさい」
「いや、ここで待つ。俺が何の用で来たのか判ってるだろう」
「そうですか、それじゃそこでお待ちなさい」
 梅太郎は洋服ダンスを開け、隠してあった刀を取り出すと刑事をめがけて突き出した。刑事は慌てて部屋の外へ逃げた。
 その瞬間、梅太郎は襖を閉め、部屋の隅の壁を押した。
 壁は、くるりと廻る仕掛けが施してあり隣の家に通じていた。
 百瀬家の背中合わせに建つのは、乾分の福井義雄の家であった。そのまま福井家の二階へ逃げ込むと、階段を駆け降り路地を走り抜け姿を消した。
 隣の家の二階の壁がくるりと廻って百瀬家と繋がっている。
この仕掛けは梅太郎が考えたものだった。

「俺の人生って親子で逃げ回っているわけですよ。子供の頃から親父もおふくろもいないんだもん。どこで暮らしてんのかもよくわかんないの。そりゃあ、子供だから寂しくなるよ。でも親父の乾分にはその分、可愛がってもらったさ。あの仕掛け扉が家にあったのは驚くだろ?よく金沢には観光名所で、天井から梯子が降りて来たり、廊下の板が廻って外へ出られる忍者屋敷があるけれど、親父はそんな場所は知らなかったはずだから、壁が廻る仕掛けの発想は浪曲か講談本からか、どこかの賭場で見たんだろうなー。たぶん。でも、あの仕掛けの壁を使ったのは、これが最初で最後の一度っきりだから、その一度でホントに絶体絶命の窮地を脱出したんだから、たいしたもんだよ」

 その日以来、梅太郎は家に戻らず、この日、たまたま留守にしていた菊江も事情を察し、そのまま家に戻らず逃げた。
 博教は、この日から二年半の間、父と母に会えなかった。

 こうして両親二人が戦時のどさくさに紛れて身を隠し、家族が揃って暮らせるようになるのは終戦直後のことだった。
 逃亡中の梅太郎と菊江は、何度か柳橋に戻ってきては、兄の孝治や曾祖母のふみとは隠れて会っていたらしい。
  それも知らない博教は、
「おばあちゃん。お父さんどうして帰って来ないの」
「お前がいい子にしていれば、そのうち帰って来るよ」
「嘘だい。いつまで待っても来ないじゃないか。おばあちゃんの嘘吐き」と何度も駄々を捏ねた。
  梅太郎が失踪した後、面子を潰された警察は何度も柳橋の家へ刑事を送ってきた。
 警察の尋問にあっても、曾祖母・坂本ふみは、そ知らぬ顔を通し続けた。
「こら、ばあさんよ。何時来ても私は存じませんばかりでは通らないんだよ」
「何言ってるんだ若造!年寄りだと思って舐めた口利くんじゃないよ。あんたら弱い女には御大層な言葉だけは吐くんだね!」
 坂本ふみは、平気でこういう啖呵が切れる女傑であった。
 やり込められた刑事は、外で遊んでいた博教のところへやって来て尋ねた。
「おじさん、坊やのお父さんに会いたいんだ。どこに居るか知らない」
「知ってるよ。すわだに居るよ」と博教は答えた。
 この話を兄の孝治にすると博教はいきなり殴られた。
「だって、いつもお父さんはどこに居るのっていうと、すわだに居るってお兄ちゃんも、おばあちゃんも言ってるじゃないか」
 博教は泣きながら抗議した。
「いいか、今来たのは、刑事(デカ)なんだぞ。これから誰かにお父さんの事を聞かれても、絶対返事しちゃいけないぞ」
 博教は、兄の孝治が、こんなに真剣な目で語るのは今まで見たことがなかったので、自分が余計なおしゃべりをしたと理解した。
 しかし、博教が、すわだ(=須和田)に居ると信じていた梅太郎はその頃、南千住のアパートの一室に住んでいた。
 このアパートは、梅太郎の弟の政治(まさはる)の愛人、お松の経営する小料理屋「浜の家」から歩いて五分の場所にあった。
 潜伏先の目と鼻の先に身内が住んでいるにもかかわらず、梅太郎は、その日常の不便を頼ることはおろか弟にも、お松にも居場所を知らせなかった。
 それは、この稼業のなかで、『裏切るのは常に身内からだ!』と梅太郎は言い聞かせていたからだった。

 後に博教は、人生の要所要所で何度も梅太郎の、この言葉を思い知らされることになる。

「わかるかい?『裏切り者は常に身内』なんですよ。親しくしていても最後は裏切るんですよ。誰にも金とか名誉とかあるからね。
 そっちのほうを選ぶ。でもそれは親しいと思い込んでいるから、心が離れた時に裏切られたって思うものなんだよ。だったら最初から親しいって思わなければいいんだよな。いいかい、これだけは覚えておけよ!」



 坂本ふみと坂本直吉

 刑事相手に丁々発止でやりあえる、この曾祖母、坂本ふみ──。
 彼女は明治十一年に芝で生まれて神田で育った。
 ふみは、津軽藩の侍の娘だった。
 しかし、幕府の瓦解と同時に坂本家は、経済的に逼迫し、長女の、「とね」を赤坂の花柳界で働かせた。
 とねは、芸者になると、その美貌に毎夜お客がつき、時をおかずして当時の通商大臣の妾に納まった。
 一方、妹のふみは《女っぷりなら、私が上》と思っていたので、自ら花柳界で働く決心をし、姉と同じく赤坂の芸者になった。
 姉以上の美貌のふみには、何度も縁談があったが、姉のような赤坂に遊びに来る、時の権力者には見向きもしなかった。
 佐幕派である津軽藩出身の、ふみにとって薩長土肥出身者は、にわか天下を獲って一家を没落させた田舎侍に過ぎなかった。

 赤坂でふみと出会うのが、ふみの夫であり博教の曾祖父、坂本直吉──。
 直吉は、土浦出身で荷揚げ人夫から身を起こし侠客となり、一代で大金持ちになった。
  博教が大人になってから見つけた『毎日グラフ』別冊・事件記者百年/昭和四二年四月発行には、こんな記事がある。

《明治二七年一月二七日 東京・日本橋でバク徒が血の乱闘

 日本橋を縄バリにするバク徒・関根与兵衛(通称・大助)のシマを乗っとろうとする柳橋のバク徒・坂本直吉(三十五歳)(通称・土浦の直)が深夜、五十余人の乾分をつれナグリこみをかけた。モモヒキ、ワラジにキャハン、白ハチ巻きと次郎長時代をそのままのスタイルで日本刀さして押しよせる柳橋軍にたいし日本橋軍は総勢三十余人で対戦、白刃ひらめかすチャンバラとなったが日本橋署出動で、まず三十人を検挙、日本刀四十本を押収、さらに八十人を追加検挙した。》

 記事でありながら講談調なのは当時の文体なのだろう。
 このなかで、血煙舞う決闘場で日本刀を持って果敢に大暴れするバク徒の坂本直吉が、博教の曽祖父であった。
 直吉は「土浦の直」と呼ばれた親分で、南千住、橋場界隈を縄張りとしていた。
  当時、石炭や木材を白鬚橋近くの川岸に接岸する運搬船から荷揚げする人足を七百人以上持っていた。また、一財産を成したところで、苦学生を援助する右翼的結社「黎明曾」を設立した。
   つまり、侠客の親分であり国を想う壮士であり実業家の名士でもあった。
  その後、百瀬家の男たちが多方面に「仕切り役」を担うのも、この曽祖父の血であった。
  直吉が、ふみと初めて邂逅(あ)ったのは、赤坂の料亭「芳巴」であった。
 この夜、ふみがお座敷で「北洲」を踊った。
  直吉は、この立ち姿の美しい、ふみを見初めて後妻に迎え入れた。
  ふみは、とにかく気の強い負けず嫌いな女だった。

  梅太郎の周囲にいる、侠客の兄弟分で「銀座のライオン」と呼ばれた篠原縫殿之助(ぬいのすけ)も、蠣殻町の鈴本栄太郎も、ふみを「姐さん!」と言って立てていたが、逆にふみは彼らを「縫殿之助!」「栄太郎!」と平気で呼びつけていたほどであった。

「でも考えてみたら、婆さんは直吉の女房だった時代には、直吉の乾分だった親父のことを『梅!』って呼びつけてたんだろうな。それが親父に惚れて、親父の女になったら、いつのまにか年上の姐さんだったのが『ふみ!このハンチク野郎!』って言われてたんだから不思議なもんだよ。いつのまにか上下が逆転しちやうんですよ。だから、男と女の関係は惚れた方が負けなんですよ」

 余談だが、原宿の百瀬宅には60歳を超えた、凛とした女性が通いで常駐していた。百瀬を「会長」と呼び、百瀬の身の回りの世話をするだけでなく、スケジュール管理の秘書役をつとめ、周囲から「クミコさん」と呼ばれていた、この女性が実は若い頃の百瀬の恋人であり、その後、老いてから百瀬が身元を引き受け、しかも私生活には一切口を出さない事務管理者として雇っていたことを知った。
 つまり百瀬もまた、父と同じような私生活を送っていたのである。

 失踪した両親を待って、ひっそり暮らしていた頃、博教と曾祖母の坂本ふみは再三揉めていた。
 博教が四歳になる頃、家の玄関先で、
「宮さん、宮さん、お馬の前にヒラヒラするのはなんじゃいな、トコトンヤレ、トンヤレナ~」と当時の流行り唄を歌うと、奥に居た、坂本ふみはいきなり怒り出し「そんな、敵の唄を唄うんじゃない」と、いつにないほど怒鳴りつけた。
 当時、博教には、叱られた意味はわからなかった。

「まだ徳川幕府と明治新政府の対立が庶民には残っているんだよ。この唄は品川弥二郎が作詞で大村益次郎が作曲って言われてるけど、薩長が官軍を名乗ったときの行進曲だったんだよ。♪トコトンヤレ、トンヤレナ、あれは朝敵征伐せよとの、錦の御旗じゃ知らないかトコトンヤレ、トンヤレナ〜って続くんだよ。今、思えば、婆さんは徳川至上主義で、自分たちの生活を踏みにじった薩長の新政府を憎んでいたから、この唄も嫌だったんだろうな。でも、子供にはわかんねーよ。」
 
 私は後に『てなもんや三度笠』の再放送を見て、劇中、薩長軍が何度もこの行進曲を歌うの様を確認して、当時、如何にポピュラーであったかを実感した。

 また、ある日、密かに父と会って来た兄・孝治は「いいだろう」と梅太郎に買ってもらった算盤とクレヨンを博教に見せびらかした。
 博教は自分の土産がないことを知ると兄からクレヨンの箱をひったくった。
 それを見ていたふみが、
「兄さんを邪険に扱う奴があるか」強く叱った。
「だっておバアちゃんは、お兄ちゃんばっかり可愛がるんだもん」
「お前だって可愛がってるだろう」
「嘘、嘘、おバアちゃんは『ひろちゃんよりも、たかはるさんを贔屓している』って、吉兵衛が言ってたもん」
 と博教が言うと、その言葉が終わらないうちに、長火鉢の銅壷の横に差してあった真鍮の火箸が博教に目掛けて飛んできた。
 そのとき(こいつは心底、恐ろしいばあさんだな)と博教は思った。
 博教とふみの決定的対立はこの日から始まった。
  博教は考えられるかぎりの悪戯を繰り返した。
  洗い張りの板を使って滑り台にしたり、棕櫚(しゅろ)の木を覆う茶色の毛にマッチで火をつけて燃やしたり、貯金箱の中の小判を盗んだりして、ふみを困らせた。
  坂本ふみは、誰に教わったのか40歳ほどの女の祈祷師を呼んだ。
「大丈夫ですよ。この子の体の中にいる癇の虫さえ追っ払えば、おとなしくなるはずです」
 そう言うと博教の右手を手に取り掌に右手で字を書くようにしてから、
「むん。じんずるざあげん。りゃーげんずん。らいじょうざんざんでん」という訳の分からない呪文を何度も繰り返した。
「どうです。指と指との間から糸のように細いものが出ているでしょ。これが癇の虫です」と祈祷師が言うと、ふみは頷いていたが博教には見えなかった。
(なんだ、この嘘つき女)と思った博教は、
「僕には何も見えないよ」と言うと、同時にふみの金きり声が飛んだ。
「悪い子には見えないんだ。私は見えるよ!」
 それから、この小林という女祈祷師が家に頻繁に出入りするようになった。
 祈祷師は、五度ほど癇の虫退散を試したが、博教の悪戯は全く治らなかった。
 博教と遊んでくれる祈祷師とは親しくなったが、心のなかでは「なんて、この女は嘘吐きなんだ」と見破っていた。
〔人は、なんとインチキなものを頼りにするのだろう〕
 この事件を機会に、その後、博教は生涯を通じて無宗教のまま、修羅場においても神頼みなど一切することがなかった。

  幼児、博教が祈祷師や婆さん以上に怖がったものは「死の恐怖」であった。
 自分がこの世から消える死を思うと、電車の中にいようが映画を観ていようが、何をしていても、その場に凝っとしてはいられなかった。
だから、死後の世界を思わせる漆黒の闇は恐ろしくてどんなに叱られ殴られようが部屋が明るくないと眠れなかった。
 柳橋の家では、博教が暗闇を怖がるので、親子ソケットに付いた、0ワットの電球が布団の上に必ず点いていて電気を全部消して寝ることはなかった。

 博教が死を最初に意識したのは、五歳になる前のことであった。
その頃、梅太郎の乾分の女房が亡くなった。
 博教はお葬式に、彼女の寝かされたお棺に菊の花を入れた。
 人の死についての自覚がまだ乏しかったので泪は出なかった。し
かし兄の孝治に死後の世界について教わっていた。
  1年中お菓子を食べて居られるのが天国、その反対に閻魔さまに舌を抜かれるのが地獄であると、兄から聞いていたので出棺するとき「天国へ行け!」と叫んだ。
 この幼児の言葉に「えれえもんだ、坊ちゃんは……」と同席していた、うどん屋の親爺さんが感心した。
 しかし、その横では曾祖母のふみは、
「ああ、嫌だ嫌だ、末恐ろしいよ。こんなに年端もいかないくせに人様に好かれるような、はしっこい言葉がすらりと言えるんだから……」と呟いた。
 その言葉を聴いて5歳にして博教は、逆に「ああ、嫌だ嫌だ、これからも、この婆さんが俺の敵になるのだな……」と実感した。

「俺も婆さんも、お互いに生来のはしっこい性格だったから、なおさら自分と性格が似ている俺のことが怖かったんだろうな、しかし気風も良くてなぁ、おもしれぇ女だったよ、なんでも知ってたしな、婆さんは俺が大学一年まで生きてたんだから、死ぬ前にもっといろんな話を聞けばよかったな」
 
  この葬式は、博教が人の死を初めて体験した記憶だった。
  この死を目の当たりにして、博教は女の体から菊の花の香りが強くしたのをはっきりと覚えていた。
 その菊の香りは3歳の頃、女中の、おふじに連れられて行った国技館で観た「菊人形大会」で体中に浴びた香りと同じものだった。
 あの日、博教には菊人形よりも国技館の天井に飾ってあった優勝額の力士の方が恐ろしかった。
 あの中の一人が今にも天井から飛び降りてきて襟首を掴んで、自分をどこか遠くへさらっていきそうだと思った。
 お葬式の菊の香りは裸の力士が博教を死の世界へと連れ去る危険な妄想を誘った。
 それは老境になっても続き、持病でもある重度の死恐怖症(ネクロフィリア)の前兆でもあった。

  しかし、死へのトラウマこそ、博教を死と隣り合わせにある「命懸けの虚構」に駆り立てた最も大きな要因でもあり、そして、この死恐怖症(ネクロフィリア)が遥か後、父・梅太郎の仕掛けの壁のように博教の人生を決定的に救うのである。

  しかし、そのことは、まだ誰も知らない。

  その後も、博教と兄と曾祖母との暮らしは、来る日も来る日も衝突の連続だった。
  ある日、孝治とふみの仲良しコンビが、孝治が学校で使う算盤を買いに出かけた。
  博教は留守番役だったが一人にされたのが悔しくて家中の算盤を持ち出して林檎箱の下に敷き、自動車ごっこをして遊んだ。その結果、算盤は全て壊れて使い物にならなくなった。
 この悪戯に、ふみは博教を押入れに入れた。
 博教は、侘びを入れることなく、わざと、ふみの大嫌いな「宮さん、宮さん、お馬の前にヒラヒラするのはなんじゃいな、トコトンヤレ、トンヤレナ」と歌いながら、ふみが根負けして戸を開けるまで凝っと待ち続けた。
 当時、ふみにも頭を下げず、しかも自分が一番嫌いな暗闇のなかに何時間を我慢強く耐えられたことに、博教は子供ながらに自己満足していた。

「こじつけかもしれねーけど、俺が獄でたった一人の独居生活を4年8ヶ月も、来る日も来る日も、読書三昧しながら我慢強く過ごせたのは、もしかしたらベースには、親父の獄のことと、この子供の頃の押入れがあるんだろうな」
 
 兄と曾祖母を敵に廻した博教は、子供の頃から一人ぼっちで空想の世界へ浸り、物語りの世界へ入るため本を読むことが苦にならなかった。
 生まれながらにして、腕っぷしで生きていくことを運命付けられていたような家系にもかかわらず博教が読書家となったのは、両親が揃って愛書家あったことが、その遠因であった。
  梅太郎は当時としては珍しいほど、かなり難しい漢字が読めた。
 もともと、祖父が急逝したため9歳から活版屋で文選係として働いていた梅太郎は、その頃に難解な漢字も覚えてしまった。
  なにしろ、愛読書が『中央公論』で周囲の不良たちに「こんな難しい本読んでいるんですか」と驚かれた。
  父が、昔、文選係をしていたことを聞いた時、博教は将来、自分が山形の獄で父と同じように活字を拾い、活版や校正の仕事を憶えることになるとは夢にも思ってもいなかった。

  母・菊江も読書家であり、筆マメで、梅太郎の手紙や、近くに住む中村勘三郎丈の母堂の代筆を頼まれたりで、その達筆を「あなたは紫式部のような字を書く」と周囲におだてられていた。
  後に、上智大学の英文科に学ぶことになる長男・孝治も本に耽溺し、将来は作家や詩人やジャーナリストになることを夢見ていたほどであり一家揃って活字好きの家系であった。
  そのなかで博教だけは小学校へ入っても自分の名が漢字で書けない国語力だったので「こいつは自分の名も書けないよ!」と梅太郎に笑われていた。
それでも梅太郎は叱りもしなかったし「勉強しろ」などとは一度も言うことがなかった。
 そんな博教が小学校3年生の時、芥川龍之介の「杜氏春」を教科書で読み、以来、俄然、読書好きになった。

「三島由紀夫の初版本の蒐集なら日本一なんじゃない。俺は金に糸目をつけないしね。俺は本もそうだけど紙モノそのものが好きなんですよ。写真とかさ。それでそれを集めないと気がすまないんですよ。古本屋、何軒分あるかわかりませんよ、この部屋だけじゃねぇからね、実家もあるし、このマンションの地下に何個、書庫があるか、今度見せてやるよ」

と博教は本が山積みになって足場がない一室で言った。

 実際、書物は博教の生涯に絶えず付き添い、そして万巻の書物を蒐集しつづけた。

 人生を「命懸けの虚構」に生きた博教にとって書物は虚構の世界に逃げ込む手段ではなく、現実世界に博教を主人公とする物語の呼び水となったのだ。    

                            (つづく)


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