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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#22

 日本列島にバブル景気が訪れる1980年代、その手前の70年代後半、博教は刑期を終えて出所し、自身のシノギを見つけるために東奔西走していた。
 1979年39歳になった頃、博教は今日は金沢、明日は館山と骨身を惜しまずに不良債権回収の旅に出たお蔭で、ある程度の美味い飯が喰える身分になったが、そんなものでは博教の野望は満たされることはなかった。

 そんな時、博教の宇宙に彗星のように現われたのが、株の天才、池田登だった。
 池田に初めて会ったのは堺大浜に住む鍋島力哉の家へ遊びに行く日、新幹線の中で読む本を探しに市川に新設された古本屋にブラリと入ったときだった。そこの奥で本棚に囲まれながら奴は熱心に本を読んでいた。
 古本屋には変人が多い。博教は、まず観察した。照れることなく話かけた。そして、すぐに親しくなった。
 池田はその数年後に株の売り買いで財を成すだけあって、博教とは読んでいる本も違っていた。
  大正時代、三井、三菱と並ぶ大商社となった「鈴木商店」について書かれた城山三郎著『鼠』、日本一の株の相場師、坂本阪二の物語、東大生の金貸しが経営していた「光クラブ」について書いた三島由紀夫の『青の時代』などなど。
 池田は、投機に成功してやがて失敗する男の自伝が好きだった。
 ナポレオンの大敗を伝書鳩で知り大儲けしたロスチャイルド家の話になると、朝方まで博教に話し続けた。
「大儲けの秘訣は、如何に正確な情報を把握するかにあります。ロスチャイルドは日頃から伝書鳩の訓練をおこたらず、鳩の飛行距離もバラつきがあるので、鳩の中継点も力不足のものに合わせるといった配慮をしていたらしいです」
 池田は話し好きだが、唇を動かさないから声がくぐもり、周囲の人間も閉口するほど、言葉がとても聞き難かった。

「普通の人なら聞き取れませんよ。でも、俺は下獄中、獄中ナンバーワンを自負する耳の良さで、七十メートルも先で喋っている声をとらえて、『おい、明日は西瓜が出るぞ』って仲間に教えられる能力を持っていたんですよ、池田の何を喋っているのか判らない蚊の鳴くように低い声でも聞き留められたからこそ、彼の才能を見いだせたんだろうね」

――私は、百瀬博教を取材中に何度も、百瀬氏とコンビをくんで挿絵や表紙絵を描いた故・安西水丸画伯と同席した。氏は当時、既に体調を壊していためなのか本当に蚊の鳴くような小声で喋り、ふたりのほとんどの会話がボクには聞き取れなかった。その水丸氏の声のボリュームを一向に気にしない百瀬さんの姿を見て「耳が良い」とはこのことかと思ったものだ。

 また、何十軒と回っていた馴染みの古本屋の店主と博教は、年齢、性別に関係なく昵懇なのには驚いた。それだけではなく、彼らのパーソナリティ、個人情報まで熟知していた。そこまで彼らと話込んでいるのだ。

「古本屋の主人は変わり者が多いんだよ。ある意味、世捨てびとでもある。古本屋を営むことが、そもそも、まず読書家でインテリだとわかるだろ。路上の知の持ち主ですよ。彼らは何故、サラリーマンではないのか?皆、理由ありなんですよ。そこを訊いているとと面くろいわけさ」

 博教が、池田の株を見る目の確かさに舌を巻いたのは、まだ親しくなって間もない頃、アパートとタコ焼店を経営する竹内という友人と彼の店に行くと、博教の頭越しに竹内にこんな話をしたことに始まる。
「300万円を2年後には3000万円とします。但しその2年の間は無利息です。2年なんてかからないはずですが、3000万円は貴男が60パーセント、私が40パーセントでどうですか。私は逃げも隠れもしません。よかったら300万出して下さい」
 池田の言葉に竹内はその場で断った。誰が聞いても虫のイイ話だ。
<こいつは何故俺に言わないのだ。万に一つ実行出来なかった場合を怖れているに違いない>と思って博教は池田を眺めた。
博教は、この池田登に賭けてみようと決めた。
そのためには、この池田がどういう男か知り尽くす必要がった。

博教は市川に居る時の1日の大半を池田と共に過ごすことにした。
池田と博教が出会って間もない頃には軽トラックに乗り、いつも二人だけで食事に行き、狭い道で、
「ほら、百瀬さん、あそこに新聞紙が落ちていますよ」
 と言われれば、それが晴れの日でも小雨の日であっても助手席からさっと降りて古新聞や古雑誌の束を拾い、荷台まで運んでやった。
 博教も目敏い方だが、獲物を探す早さはどうにもかなわなかった。
たまに博教が先に見つけて知らせると、
「見えてます。あれは週刊誌や少年ジャンプなんかの束で売りものになりません。我々の仲間内では『ゴタ』っていうんです」などと言った。
  博教はゴミのなかから金に変わる古本を漁り、山のような廃棄物から金目のものを探す力仕事を献身的に勤めた。
 連日、池田と過ごすうちに互いの信用は増していった。

「しょせんは、お互いがくすぶり同士でしょ。残飯を拾って食べるような生活ですよ。ただ俺は職業に貴賎なしで懸命にやりましたよ。ま、古本漁りも古紙の回収も俺の好きな仕事だったしね。今でも軒先に古雑誌なんかがまとめて捨ててあったら、ゴタだってちゃんと拾って隅々まで目を通すし、そこから選抜して好きなものがあったらストックするしね。ありゃあ、俺の天職だと思っていたね」

1981年、百瀬博教が41歳の時の4月、解離性大動脈瘤の手術で、博教の太陽だった裕次郎が慶応病院に入院した。
 遥か昔、裕次郎が骨を折って入院した頃は、週に何度も見舞いにでかけたが、石原家に迷惑をかけた懲役上がりの身では、博教は顔を出すことすら躊躇われた。連日のワイドショーの報道を見つめながら、もっと自分が出世していなければ、会わせる顔がないと博教は思った。

 こうした日々を4年も過ごし、確実に池田と親密になると、真夜中に突如やって来る池田の軽トラックに乗って、松戸、柏、船橋等のファミリーレストランに入り、古本話に熱中しながら、彼と共にコーヒーとショートケーキを喰べて過ごした。
 お酒を一滴も飲まない博教は、どんちゃん騒ぎをすることもなく、こうして古今東西の本の話に耽り、長い静かな夜を過ごすことを苦にすることはなかった。
 むしろ、そういう毎日が、時に相手を変えながらも生涯続いたと言うべきだろう。
──私もそのひとりだった。

 ある日、とうとう機が熟してきたのか、池田は、
「株で使う5000万円を借りたい」と博教に言った。
 博教は、これまで金に対して池田ほど正直で大丈夫な奴と会ったことがなかった。一度として間違いを起こさない。びっくりするほど律儀者なのだ。
「金は必ず用意する。おい池田、その話に俺は乗った。お前ならやれるだろう。金は何時渡せばいいんだ」
 池田は満面の笑みを浮かべた。

 自分を信じてくれる男が目の前に立っていることを心から喜んでいた。
「ところで池田、お前これまでに株で儲けたことってあるのかい」
「ありません。中央大学の学生の時から勝ったり負けたりは何度かしましたが、最終的には4200万円の大負けをして、どうにも清算が付かないので親や従兄弟から借りました。それを返すんで弁護士事務所を辞めて古紙回収の仕事を始めたんです。まだ当時の借金は残っています。どうしたんですか、不安になったんですか。大丈夫です。2年後には必ず私を『オネスト・ジョン』と呼ぶに決まっているんですから」
 オネストジョンとは、ゴルフのルールで事前に自分のスコアを予想して提出し、ホールアウト後、その事前申告スコアにいちばん近い人が優勝というものだが、ゴルフをやらない博教はただただ、忠誠を誓うという意味だと解釈した。

 実際、この夜から正確に2年後、池田は自分の言った通りのことを実行した。博教はこの約束の期間の途中で「俺の金は大丈夫なんだろうな」などと貸金について一切触れなかった。だから金が大きくなって戻ってきた時、これまでそれで通してきた「己の見た目を信じる」心情を今まで以上に信頼した。

 5000万円を集める前に、最初に渡した300 万の金を1800万にしてくれた池田に株操作に対しての御苦労貸を渡そうとすると、
「誰も僕の言うことを本気で聞いてくれませんでした。百瀬さんだけですよ。よし、やってみろって励ましてくれた人は。貸してもらったお金で株やってとても自信がつきました。もし株に興味があるんでしたら教えますよ」
「いい、いい。俺、数字に全く弱いんだ。自分ちの電話番号も覚えられない。小学生の時、分数の割り算出来なくて立たされた。」
「百瀬さんて今おいくつなんですか」
「44歳」
「そうですか、そうすると一生ヤクザをやっていくんですよね」
 博教は自分が使うならともかく、相手が自分をヤクザだという言葉に引っかかったが話を続けた。
「どうして、お前がそんなこと判るんだ」
「人間って、27歳の時にやっている職業が生涯自分を支えるものになるのだって書かれた心理学の本を読んだことがあるんです。僕は百瀬さんより一廻り下の辰ですから、今年32歳です。株が得意なんで大儲けして、50歳になる前にバハマの海に自分の船を浮かべて株だけをやっていたいですね。1ヵ月も2ヵ月も陸に上がらないで、ただひたすら電話で株を売り買いする暮しを一人でするつもりです」
「女房や子供はどうするんだ」
「こちらのやることにどうじゃらこうじゃら口を出す批判的な身内ほど、うっとうしいものはありません。その点百瀬さんて独身だからうらやましいです。相手さえその気ならば、どんな女とも結婚出来るんですから」
 池田はいつもより浮き浮きしていた。
「バハマに行って海に浮かべた船の中から株だけやるようになったら、女房と子供には花屋でもやらせようと思ってるんです。まあ見ていて下さい。300億を年10パーセントで廻せば、1日1000万円使えるんです。毎月3億です。それは百瀬さんに全部上げますから何でも好きなものを買って下さい」
 <本当かよ。>
博教は半信半疑で、こいつは自分を大金持ちにさせる為にどこかの星からやって来たのではないかと思った。
まだ儲けてはいないが、池田の話すこと総てが本当に実現しそうだと思った。
周囲を見廻しても、古本や中古品に囲まれた、ピッカピッカにはほど遠い暮らしぶりではあるが、長年の雌伏の時があったが故の研ぎ澄まされた野心と計算が、そこにはあった。
 彼の口から飛び出す夢のような金額が毒蜘蛛の針のように博教の躰に突き刺ささった。
「毒とは毒を飲んでしまう勇気だ」
 博教は目の前の杯に毒が仕込まれていることを百も承知しながら、何杯でも飲み干さずにはいられない気分だった。

この夜から池田は一日として気を抜くことなく全身全霊を駆使して株で大儲けした。しかし、天文学的な数字の資産を持つようになっても、けっして贅沢するような気配はなかった。
 相変らずちり紙交換のアルバイトをする者に、軽トラックを一日一万円で貸す為に、前夜いくら遅く寝ても翌日は早起きしてその手配をおこたらなかった。
 そして池田が少し金廻りが良くなり中古のキャデラックに乗っていた頃は、銀座と新橋の間のガード下に捨てられていた経済小説の本百冊ほどを、いつものように博教が拾って広い後部座席に積み込んだりしたものだった。

 池田は博教が14人の仲間から集めた5000万円の金を受け取った日から止まらない汽車のように走り出し、バブル経済がはじける日までに株一本で700億以上の資産家となった。
 池田の脳味噌は他人の十倍は大きいと思えるほど計算が早くて投機の才能があった。
 最初に貸した300万円の礼を払いに来た夜、彼が案内したのは焼とりのチェーン店、小岩の「鮒忠」だった。
そして注文したのが1300円の幕ノ内弁当だった。
 池田は、やがて「鮒忠」の本社ごと買えるような身になっていた。
しかし、池田は相変らず一張羅のオリーブのワッペンを付けた紺色の木綿のジャンパー姿だった。その様子に博教はますます池田を信頼した。
 
 1986年、46歳になった博教は、池田が株で当てた金の一部を毎月金利として払ってくれるお陰で、金回りは良好すぎるほど良好で、出資した仲間達から「金運大明神」と崇め奉られた。

 気分はすっかりマハラジャだった。
博教の懐も溢れるほどの札でいっぱいだった。
博教は、ふとニューヨークヘ旅しようと思った。
 それは中学校の朝礼で古賀米吉校長が話をしてくれたエンパイア・ステート・ビルディングの話が忘れられなかったからだった。
「エンパイア・ステート・ビルの展望台に入る時は、背広の上着の中にあるライター、パイプ、懐中時計なんか全部出さなきゃならない。下を覗いている時、間違ってそれ等を落すと加速度がついて大変なことになる」
 昭和六年に、古賀校長は初めてニューヨークの旅をして、出来たばかりのエンパイア・ステート・ビルに登っていたのだった。
 昭和61年11月、思いは叶って初めてニューヨークヘ旅をした。
 博教はレキシントン・ホテルに泊った。
 ニューヨークにはリムジンがよく似合う。おのぼりさんの博教は、朝の七時から真夜中までリムジンをチャーターして、八日間ニューヨークを走り廻った。

 この年から、映画「パリ、テキサス」の主人公の貧乏たらしい野球帽姿に心を打たれて(FOREVER YOUNG AT HEART)のロゴの入ったアドミニラル・キャップをかぶり始め、後に博教のトレードマークとなった。
 博教の本意は、お金持ちに見えないために、帽子をかぶり始めたらしいのだが、誰もが怪しがった。
 以来、鳥越祭りとお葬式以外はこの帽子をかぶらない時はなかった。

1987年、ラテンクオーター時代、一緒に住んで行動を共にしていて、その後、拳銃不法所持で共犯として捕まり、出獄後は郷里で成功していた後藤が自殺した。
 後藤の訃報に接した時、天井の無いポルシェで、寒さ極まる二月、湯河原から赤坂まで帰った夜のことを懐った。裏切りものを生涯、許すことはなかったが追い詰めることもなかった。全ては奴が身内を装い獄に訪れた時の三文芝居が忘れがたい想い出に変わったからだ。

この年「新潮45」に「不良日記」の連載が始まると、池田との夜の散歩も長い間が空くようになった。
博教は、初めての連載依頼に応えて、文筆に全身全霊をぶつけた。

 池田稔が同い年の富士銀行の課長と仲良くなったのはこの頃であった。

 池田の資産が五十億を超すようになると、大手銀行が向こうから「どうぞお金を使って下さい」とすり寄って来た。
 そうなると池田には今まで頭を下げても、なかなか貸してもくれなかった住友銀行新小岩支店の支店長みたいな小者などは足元にも近寄れずウロウロするのみ。これと決めて買えば上がる株の勢いで、五十億の資産が七十億となり百億になるのはあっという間だった。
 しかし古本屋の主人らしく中古の軽トラックから中古キャデラック、中古ジャガー、中古ベントレーと中古車ばかり七、八台持つ身分となった。

 池田は市川に古本販売で六千五百万の中古住宅を購入した頃に、博教と邂逅して、株を再開して数年間で何十億という大金を動かすようになり一炊の夢を見た。
 しかし、富士銀行の山田課長と会ってからの池田はすっかり人格も変わっていった。
 なにしろ銀行の金庫から何億、何十億と掴んでくる仲間が出来れば、どんなに頑張って友人、知人から金を集めようが五億円止まりの博教など、あまりにも小さくて眼中からはずされるのは仕方がなかった。
 そして「酒井和歌子なら一晩五千万円出してもいい。話をつけてくれる奴、誰かいないかな」などと池田は西麻布のレストラン「キャンティ」の特別席でうそぶくようになった。

池田の博教への不平も数々聞こえてくるようになった。
「電話してもつかまらない。つまんない。俺が金を儲ければ儲けるほど百瀬さんは遠くへ行ってしまう。金ならいくらでも払えるのだ。月給は三千万円でもいい。一日も早く家の門番にして二十四時間手元に置いておきたい」
 そんなことを言い始めた。
「祭りといえば鯛と蛤の盛り合わせの他に、お神酒料を50万円も渡しているのに、『どうぞ御見物にいらっしゃい』の声一つ掛けてくれない。去年だって100万円入れた祝儀袋を持って、連れの女の子にいいところを見せようと、まだ会場を設営中の現場ヘジャガーで乗りつけると、『おい、そこの。入口へ止められちゃあ、畳を運んでくるトラックが入れないんだよ』って見たこともない奴に邪険に扱われた。おいお前、俺はお前達の会長の米櫃なんだぞって怒鳴りつけたかったが、女の子がそいつの腕の刺青を見つけて『早く行こうヨ』って言ったので黙って引き揚げたけれど。百瀬さん、いや百瀬は俺の絶大なる錬金力を心から感謝しているんだろうか。」
と疑心暗鬼になったいった。

 ある日、博教の家に時々遊びに来る洋服屋の大沢が、半べそでやって来た。
「おやじさん、大変です。池田が本八幡のキャバレーで、『百瀬は将来俺の家の門番にするんだ。月給は三千万円やるつもりだ』なんて大ぼら吹いていたんです。池田さん、いくら酔ってもそれはないでしょう、と注意するといきなりビールをぶつけました。あんなへなちょこ一発でノックアウト出来ますが、手出ししないでいると調子に乗って顔を殴りました。私はおやじさんの乾分ではありませんが、ここで池田と縁を切って下さい。そうしたら戻ってあの野郎半殺しにしちまいますから」

この時、博教は一リットル入りの牛乳パックを右手に握っていた。
そのまま大沢に案内させて本八幡へ行くと、キャバレーの前の駐車場に酔った池田が立っていた。
「こら!」博教が怒鳴ると池田は電流が流れたように背筋を伸ばした。
いきなり持ってきた牛乳を頭から浴びせた。それからシャツの首の部分に指を入れて引き、その中へ残った牛乳を流し込んだ。その間、池田は一切身動きせず、牛乳がパンツを濡らした頃、子供みたいに泣き出した。
みっともないので待たせていたタクシーに乗せ、市川方面に向かった。
「僕がこんなに好きなのに、百瀬さんは金利を届けに行った夜しかつき合ってくれないじゃないですか。以前はもっと優しくて、僕のこと親身になって考えてくれたのに、作家になって忙しくなったかどうかは知りませんけど、何時行っても部屋にいないじゃないですか。俺なんかもうどうなってもいい、ここで死んでやる」
 池田は右側のドアを開けて車外に身を投げ出そうとした。
 博教は車をストップさせ、池田を車から引きずり降ろして胸ぐらを掴むと、池田を砂利の上へ放り投げた。
「立て、この甘ったれ野郎」

池田登は金の亡者に魅入られ、ますますいじけていった。

「長くつきあったけど、池田はこの日に見限ったね。俺への嫉妬がすごいんですよ。なんで自分をかまってくれないんだって。あの頃になると、俺もいろんな人との出会いがあるから忙しいんだよ。みんな、百瀬さん、百瀬さんって来るから。あっちに顔出し、こっちに顔出しで、俺は酒をやらないから、そういうダラダラベッタンな付き合いはないわけじゃない。みんな、ホンチャンで話すわけじゃない。なかなか俺より面くろい奴はいないから、百瀬さん、お話してくださいってお座敷がかかって大変なわけよ。もうその頃から売れっ子芸者だったね。市川に居たんじゃ、もう世界が狭いって感じるようになったさ」

 そんな時に現れたのが、レイトンハウスを率いF−1参戦で有名な若き大富豪の赤城明だった。
 赤城との交友は博教を世界へ旅させることになる。

                     つづく


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