【『藝人春秋』書評】「芸人」のあるがままの姿。何年かに一度読み返したくなるだろう by.南陀楼綾繁(作家)
『週刊読書人』2013年2月8日号より
バラエティの司会者、グルメ番組のレポーター、ニュースのキャスター、ドラマの脇役。どの局、どの時間帯にテレビをつけても、芸人の顔を見ないことはない。
不思議なことに、漫才やコントでデビューしても、いったん売れるとテレビではその芸を披露することはほとんどなくなり、芸人という肩書だけが芸能界の通行手形のように使われるのだ。
浅草キッドの水道橋博士は、ビートたけしに憧れて弟子になって以来、この世界で二十年以上生き抜いてきた。「たった一日の収録で多くの人が行き交い、斬り合い、そして声なき声を結び、また別れ行く」テレビの現場で、博士が出会った人々の一瞬の表情を掬いあげたのが、本書だ。
とはいえ目次に並ぶ名前を見ると、戸惑い覚える。純粋に芸人と呼べるのは北野武や松本人志などごく一部だ。
そのまんま東はいまでは政治家の東国原英夫だし、芸人出身の石倉三郎や稲川淳二も別の肩書がふさわしい。ほかも、草野仁、古舘伊知郎、甲本ヒロトらのように芸人のイメージのまったくない人ばかりである。博士にとって、「芸人」とは何なのか?
テレビの世界では、虚と実が入り混じり光と影が交錯する。編集されパッケージになった番組は口当たりのいいものであっても、収録の現場で一触即発の事態が起きていることもある。
そういった視聴者の立ち入れない向こう側に身を置いている人。恋愛や離婚など身の回り出来事がスキャンダルとして取り上げら れることを、引き受けざるを得ない人。
それらをひっくるめて、この世界で生きている人。そういう人を博士は「芸人」と呼ぶのではないか。
たとえば、そのまんま東。淫行疑惑や暴行事件で何度も謹慎し、その一方で、マラソンや大学受験などに真剣に取り組んだ。「割れたガラスの破片」のように酒を飲み、泥酔すると目上の人にからむ。
幼いときに父親と生き別れたという欠落感が、過剰な行動に走らせるのだ。
石倉三郎は「やりたくない事はやらない」という姿勢を貫き、コント・レオナルドで売れたときも舞い上がったりしなかった。「自分の身の程を知る簡単な方法は、現ナマを実際、触ってみることだよ」と淡々と語る。
浅草キッドはまた、実業の世界で成功した人物から「キャラクター」を引き出し、テレビの中で"素人芸人" 」に仕立て上げるという罪作りなこともやっている。
古くは城南電機の宮路社長、美白の女王・鈴木その子から、本書に出てくる堀江貴文、湯浅卓、苫米地英人まで、多種多様な「異物」をテレビの画面に登場させた。存在感のインパクトだけで取り上げられた彼らの旬な時期は短く、次第に消えてゆく。
ベビーフェイスににこやかな笑みを浮かべ、辛らつな言葉を発するテレビでの振る舞いと同様、博士は彼ら芸人を過剰に持ち上げたりはしない。
笑える話にも感動的な話にも冷静にツッコミを入れる。
しかし、その裏には、自分には持ってないものを持ち、やれそうもないことをやれる人への畏敬の念が隠されている。
障害を持つ息子と同き合うためにテレビに出ることをやめたという稲川淳二についての章では、博士は冷徹な観察者としてではなく、芸人としての姿勢を問われる立場に自らを追い込んでいる。
芸人という奇妙な生態を発掘してきた、お笑いルポライターの博士は、本書では、身を切られる痛みに耐えながら、芸人のあるがままの姿を描いている。
いまも生きている彼らがどうなっていくのか。そのことを確かめるために、何年かに一度、本書を読み返したくなるだろう。
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