非暴力・不服従のすすめ3

愛の反対は憎しみではない。無関心だ。 (マザーテレサ)

日本の2021年前半は去年より悪い年になるだろう
オリンピックや流行病への対処、年内に確実にある衆議院選挙など
世相を悪化させる要因は挙げればキリがない。

そんな2021を生き残るべく、特定の事象に関係ない
総合的なメンタルに役立つ書き置きをしておきたい。

好きか嫌いか、どうするか

例えば『私ピーマンが大嫌いなんです!あなたはどう
思いますか?!』と聞かれても、知らんがなとしか言いようがない。

相手の好き嫌いに同意するかしないかの問題に
自分は全く関係ない。
そして相手にとって、自分の好き嫌いは
どうでも良い話だったりする。

義人はいない

正しいか、正しくないかが重視される世の中だが
好きか、嫌いかというのが話の本質であることは変わらない。

キリスト教によると『裁き』は神がするものであり
人間がすべきなのは『愛する』ことだとしている。

聖書によると義人(正しい人)というのはいないらしい。
故に人を裁けるほど、自分が偉い人間かを考える必要がある。

非暴力・不服従・そして無関心

例えばノーマスクで電車に乗っている人が居たとしよう
そいつに暴力を振るって拘束し警察に突き出したり
憤怒に服従して罵声を浴びせたりすることは
今の時代であれば許されることかもしれない。

しかし、他大勢がそうするように
無関心に電車を乗り換えるのが
妥当ではと読者も思われるのではないだろうか。

それは人付き合いやインターネットとの接し方にも
言える点である。

適切に無関心する

釈尊は布教の旅をする中で石を投げられたとき
投げ返そうとした弟子に対して『怒りにやり返さず
放っておきなさい』と語ったとされる。

一方で日本人は政治や宗教に無関心すぎるあまり
本質的にそれらが何であるか知る機会を失った。

神社でアマビエ(妖怪)を祭ってみたり
首都での馬鹿げた灯火管制に素直に従っている。
無関心が過ぎても良くないだろう。

非暴力・不服従・無関心

キリスト教の神は『全てを完璧に作った』と主張するが
それにしてはあまりに不条理な2021年である。
不完全な人間だからこそ、言語暴力に頼ったり
怒りに心が服従してしまったりする。

上記3つだけで乗り切れるかは不安だが
妙なサロンに頼ったり、過激な思想を拝むよりマシだろう。

読者の2021年が良い年になるように祈る。

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