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続・そして私はママになった

この記事は授乳cafeキタリナの影響を受けた
怪文書であり目的と違う人は見ないように。

前回の記事では公式ママ(スタッフ)としてキタリナに立った所で
終わっていたので、その続きを書く。
めっちゃ長いので暇なときにじっくり読んでほしい。

VRCに愛はあるのか?

なぜ赤ちゃんからママになったのか?
ひどく大げさに言うと『隣人と愛し合う』ためだ。

お砂糖なんぞではないし(同)性愛でもないことは明言する。
ここで片柳神父の言葉を引用したい

「"好き"というのは、相手が自分にとって好ましい限り
   その人と一緒にいるということ。
   "愛する"というのは、相手が好ましさをすべて失ったとしても、
   その人がその人である限り寄り添い続けることです」(心の深呼吸 164P)

これは私がお砂糖に否定的だからといって
砂糖中毒患者の批判をぶち上げたい訳ではない。
ここで重要なのは、愛することの本質はこれであるということだ。

次に、もう1つの本質を突いたツイートを引用する。

ご存じの通り母から虐待を受け父はネグレクトという環境で
愛に対して否定的な態度でずっと人生を生きてきた筆者や
一部のVRC民はまさにこれである。

VRCで善き人に出会わなければ恐らく上記tweetのまま
ひどく悲しい人生を終えていただろう。

さらに説明すると、精神医学の一部に愛着障害という概念があるが
これらに上記は一致する点が多い。

愛着障害とは、親などの特定の養育者との愛着形成が
うまくいかないことで現れる困難の総称です。
愛着障害については医学・心理学で様々な考え方があり、
定まった定義などがない状況です。

しかしなんらかの対人関係や社会性に困難がある大人の中に、
その原因が愛着形成に問題があるのではないかと考える人も
少なくないようです。(引用元 https://snabi.jp/article/143)

それ以外にも精神障害や知的障害、そのほか多種多様な耐えがたい困難を
自ら望んでないのに抱えた人物がコミュニティから一方的に差別され
村八分になる。それは中身が人間である限りVRCでも同じことが起こる。

いまさら差別反対や平等の原則を語るつもりはない
私だって人間に好き嫌いをする。ブロックだってしたことがある。
ではどうすればいいのかという私なりの答えは後述する。

愛し愛される場所

ここで再び片柳神父の言葉を引用したい

おぼれている人には、他のおぼれているひとを助けることはできません
助けたいなら、まず自分が救助されてからです。
(後略)(こころの深呼吸 154P)

当たり前である。キートン山田氏の声で言いたいぐらいだ。

しかしVRCの癒しイベントでは、溺れる人が溺れる人を
助けようとするところに構造上の重大な欠陥があった。
また助かった人に、芥川龍之介で有名な蜘蛛の糸の説話のように
人が集まりみんなして溺れていくという事もあった。

しかしキタリナではそうはなりにくいことに気が付いた。
これは仏教説話の「地獄の箸」に通ずるものがある。

地獄では身長ぐらいある長い箸を使いうどんを食べる決まりになっており
亡者たちはお互いのうどんを奪い合い、何も食べれなかった。
一方、天国でも身長ほどある長い箸でうどんを食べる決まりであったが
お互いの口元に運ぶので、飢えることはなかった。

キタリナではママと赤ちゃんに分かれるが、固定職ではないので
授乳瓶をお互いの口に持っていくことができる。
ママが赤ちゃんをやってもいいし、赤ちゃんがママをやっても良い。

これで誰しもお互いに愛し愛され合うからこそ
過剰な集中や負担、争いが生まれにくい。
私はこのコミュニティに貢献できることに魅力を感じた。

救済はどこにもない

じゃあ授乳カフェに全依存すべきかというと否だ
自立というのは依存先を増やすことだという説があり
私もそれを支持している。

あくまで1つの支柱としてママとしての活動があり
支柱が棘になるなら赤ちゃんに戻るべきと考えてる。

諸説あるが、そもそも自分の救済は自分でしか得れない
自分が幸せかどうかは他人が決めれることではないなら
救済も自分が納得するかどうかということになる。

いや落ち込まないでほしい。神仏や友人、その他いろいろな医療や
行政・福祉サービスなどは必ず手助けしてくれる。

しかし救済には愛が必要だ。では愛はどこで得られるのだろうか??
読者諸氏はありかを知っているかもしれないが
前出の通り愛に対して否定的な態度をこれまでの人生で取ってきた人物に
探せと言うのは酷な話である。

ある人は砂糖に愛を探しに行き、塩にまみれて泣き喚き
ある人はJust H Partyに愛を探しに行き、性の煩悩に溺れ我を失い
ある人はイベント開催に愛を探しに行き、承認欲求は永遠に満たされず...

そして私が探しに行くのは授乳カフェでは、ない。ないです。
ないのだ。少なくとも。1つの支柱ではあるが、ここも答えではない。

愛される人になりたい

金持ちになっても、良いルックスを得ても、良い家系に生まれても
それは概念がちやほやされてるだけである。本人ではない。

最初に出した片柳神父の言葉や、仏教が説く諸行無常を考えれば
今から努力すべきは人間としての本質であることは疑いない。

だからといって自分の本質を振り返ってみましょうとは
1ミリも思わない。そんな事をしても次の日には
地獄行きの列車に撥ねられるだけだ。

先ほどの地獄と天国の例えで言えば
たった1人で身長ほどの長い箸を使い、うどんを食べようとしてるのだから
できる訳がない。

せめて、今からでは遅すぎるかもしれないが
VRCを通じて人と関わり、もちろん自助努力をして
時には共助を受け、最後には公にも愛される人になりたい。

それが1つの手法であり答えなのかもしれないと
今は考えている。

おわりに

正直な感想を述べると、私が救済を得ることは
もうないのかもしれない。困難が多いことは容易に想像できる。

愛されても受け取り方と返し方が分からないのもあるが
そういう意味ではママとして活動するのは練習のようなもの
かもしれない。

2021年が精神的に明るい年であってほしいと願い
怪文書を置いておきます。

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