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むき出しの純情と桃について

熱を帯びた桃
先日、旅先で出会ったお兄さんに桃をもらった。旅行先で買ったものを誰かにあげるのが趣味らしく、好きでもない果物を買っては贈っているとのことだった。今回は私がその果物を引き受ける流れとなり、半ば強引に押し付けられたビニール袋を抱えて電車に揺られ、一日中片手を塞がれ、改札を通ることに二度失敗して、やっとの思いで帰宅した。

ビニールの中の桃は大変に熱を帯びていて熱かった。それもそのはずである。猛暑日、かんかん照りの日中に外を連れ回されたのだから。歩き回ってずっしり重くなった脚をさしおいて、桃を氷水につけた。桃はきんきんに冷えているのがよい。桃と一緒に手のひらを冷やしながらそっと桃の皮に触れた。水を弾く産毛の硬さと、潰れてしまった果肉の柔らかさ。その生々しい感触に下腹部がうずいた。どこまでも女性的で、純粋で、そしてエロティック。むき出しの純情に誘われている。

私は桃に、自分自身を投影している。自分の内臓の一つが桃であるような気さえする。桃に触れる手の動きが、その感触が、質感がわたしの内臓をくすぐる。私の身体をなぞる手は桃をなぞり、桃をなぶる手が私の身体をなぶる。その快感にほだされ、酔いしれている。一種の自慰行為のように。

「桃をとおして自慰をしています。」
「桃の内臓を持っています。」
「身体に桃を飼っています。」
どれも正しい。


桃の正しい食べ方
おかしいかもしれないけれど、私は桃の食べ方にもこだわりがある。桃は絶対に、下着姿で食べないといけない。台所の流しで、皮を剥かずにまるごと齧りつくのが一番美味しいし、色っぽい。どこで見かけたのか、刷り込まれたのかもわからないが、自分の中にずっと「下着姿で桃をかじる女の子は色っぽい。」という認識があった。だからなんとなく、自分も同じようにしている。

これは一種のフェチズムのようなものだと思う。「桃をとおして自慰をしています。」の場合、桃は私を投影しているが、「下着姿で桃をかじる女の子は色っぽい。」の場合、桃と女の子を第三者視点から俯瞰している感じがある。両者では視点が異なるけれど、そのどちらにもときめきを感じる。


桃とのまぐわい?
桃を使った性行為を、私はまだ経験したことがない。期待を抱く気持ちはあるものの、実際の行為が私を支配する桃への理想や純情を超えることができるかは、また別の問題であると思っている。

たとえば、桃と私のまぐわいのためのマゾがいたらいいのかも。君は私と桃との興奮のための道具でしかないんだよ、と言ったらいいのかも。うーん、それもよくわからないな。

けれど一つはっきりしているのは、桃は卑猥と刷り込むことには酷く興奮するということ。だから刷り込まれてほしい。そして、日常が桃で侵されたらいい。私が桃を齧ったなら、私が桃をふみ潰したなら、私が桃を剥いたなら、全部美味しく飲み込んでほしい。
「私の世界をのみこめ。」
心の何処かでそう思っているから支配欲が満たされない、そんな気がしている。

 


おまけ

「桃をとおして自慰をしています。」
「下着姿で桃をかじる女の子は色っぽい。



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