私のしあわせ

ちいさいころは、うちゅうひこうしになりたかったなあ。
ちいさいころは、まんがかになりたかった。
すこし成長して、医者になりたかったかもしれない。
また成長して、小説家になりたかった。
少し前は、映画監督になりたかった。

でも、そのどれも、結局はどこか、儚いものになった。
嫌なのは、その可能性がチリジリにならず、こころのわだかまりとして今もまだ残っていることだ。
でも不思議なことに、そこまで嫌じゃない。
「こうなりたかった」でも「なれるかもしれないけど、そこまでの覚悟もないし、なる必要もなかった」
こうした経験は、深い自己肯定感を与えてくれた。

何者でもない自分が、社会に少しずつ染まっていく過程で
何者かにならなければならないと後ろ指を指された時、
私は私であると、断言できるようになった。

もう誰かのために絵を描かなくてよい。
誰かの気持ちを考え、苦しみすぎることは無い。
自分は何者であるか、自分でしかないのだから。

人はそれを「諦め」や「挫折」と言うだろう。
私はその考えに固執したくはない。
今の自分を受け入れる。


深い自己肯定感に満ち溢れたとき、私が願うしあわせ。
たったひとつだけ。
ふだんどおりの。生活が欲しい。

ふかふかのあたたかい布団につつまれる。
好きな人と話す。時には嬉しくて涙が出る。
あたたかい風呂に入る。たまには、温泉にいこう。
母親が作ったあたたかい味噌汁を飲む。
心地よい音楽を聴いて、涼しい風に吹かれて眠ろう。

あたりまえのような日々が、ほんとうにしあわせでたまらない。
もうすぐ20年生きる私が、19年目の最後の月にやっと気づけた。
むしろ早い年齢で気づけた、気づかせてくれた親に感謝する。
いつかは終わってしまうのだろう。

この日々は、えいえんのしあわせ。
なにものぞめなくなってしまったみたいだ。

2024.6.25. 19歳 11か月



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