カンボジアで感じたこと
4年ぶりに、日本の外に出た。
大学2年生の初海外で、台湾行きの飛行機を逃すという、ちょっと痛い経験を共にした友達とのリベンジ旅でもあった。
お互いさすがに学んで無事搭乗し、着いたのはカンボジア。
普段から注意深い性格で、東南アジアの衛生管理に眉をひそめそうな彼女から「アンコールワットに行きたい!」と言われた時は驚いたけれど、
いざ行ってみると日本人観光客も結構いた、というかむしろ日本人で溢れかえっていた。
そもそもアンコールワットとは、12世紀前半にスーリヤヴァルマン2世がヒンドゥー教の神のひとりであるヴィシュヌ神を祀るために建てた寺院だと言われている。
その後クメール人が政権を握り仏教寺院に改められ、16世紀半ばにはヨーロッパ人や日本人も訪れるようになったらしい。
(ほとんど日本語ガイドのソチートさん(笑顔が可愛い)が教えてくれた)
アンコールワットの壁画にはヒンドゥー教の神話が彫刻され、戦いや勝利の祝杯、普段の仕事の様子が描かれていて食い入るように見入ってしまった。
建物全体の雰囲気は息を飲むほど荘厳で、
日本の仏教建築然り、歴史に残る宗教建築は、宗教そのもの以上に、政治的にも意味を持つランドマークであったことをその姿をもって知らしめる。
印象的だったのはアンコールワットそのものだけでなく、その街の様子だった。
アンコールワットがあるシェムリアップは人口約25万人で、カンボジアで2番目に大きい都市だそう。
簡易的な構造の住居が立ち並ぶ素朴な農村の暮らしと、観光業の賑わいが隣接している、
「街」というよりは「村」という表現が似合う場所だった。
曲がり角に必ずいるトゥクトゥクのおじさん、
観光客しかいないレストラン、
商品を見ていると店員さんが一定の距離を空けて着いてくるお土産屋さんなど、
その人口のほとんどが観光業に従事しており、アンコールワットは街の人々の経済的支柱になっているようだった。
12世紀にアンコール朝を治めた王が建てたこの寺院が、現代になって民の生活の支えとなっていることが図らずも彼の功績の一つとなっているようで、
その事実が遥か彼方の空の上にいる(かもしれない)彼の耳にも届いているといいな、なんて思った。
翌日、ガイドさんにおすすめされた湖を行く船に乗せてもらった。
そこはトレンサップ湖という東南アジア最大の湖で、乾季には琵琶湖の約3倍、雨季には琵琶湖の約10倍の面積になるそう。
湖の周りには水上に浮かぶ家々があり、そこで暮らす大人が漁業を行い、子供たちはそれを手伝っていた。
彼らは、湖で釣った魚を街で売ることで生計を立てているそう。
物質的には決して豊かとは言えないかもしれないけれど、村の空気や人々の表情はどこか穏やかだった。
カンボジアは1990年に内線を終え、
現在はアンコールワットの修復や学校の設立など、アメリカ・日本・韓国などがその開発を援助している。
開発が進むと、村で暮らす彼らの日常は少なからず変容する。
物質的な豊かさのみでは、必ずしも持続的な人々の幸せは保証されないと感じる。
では、精神的な豊かさとは何なのか?
幸せとは何か?
何を持って測れるのか?
そもそも、一人ひとりにとっての価値は異なるのでは?
答えはすぐには見えないけれど、
だからこそ、幸せとは何か、豊かさとは何かを追求し続けたいと思う。
ともかく、カンボジアの地に息づく穏やかな空気が失われなければいいな、という思いと、
「いや自分どの立場でもの言うてんねん」という思いが交差する今日この頃であった。
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