携帯との主従関係

 携帯は僕の主であるのか?

 僕は、高校受験の合格が決まってからというもの手にしたそれと、適切な距離感をいまいち保てずにいた。たとえば、好きな子に送ったメールを(送ってしまったにもかかわらず)何回も送信ボックスを開いては自分の文章の不備はないかと悶絶してしまっていたり、あるいはその彼女からのメールがはやく「受信中」にならないかとやきもきしたり、けれどもしょうもないチェーンメールやどこで登録したのかわからないメルマガだったりした時に携帯をベッドに叩きつけたり、まあようするにフツーの青二才だったわけだ。けれども青二才には青二才なりの年の重ね方というものがあり、曲がりなりにも青二十八才にはなれた。なれてしまった。まもなく青二十九才になってしまう。

 最近、とあることがこの青二十八才の身に降りかかり体質がガラッと変わった。この、とあること、はここでは書けないし、直接あなたと会ったからといって、話すことはほぼないだろう。けれどもこの、とあること、のおかげで僕はさまざまなものとの適切な距離関係を築きたい、と胸に刻むことができた。誤解されたくないので書くが、たとえばベッキー的なことで痛い目くらったとか、神秘主義に傾倒したとか、そういうことでは一切ない。言うなればそれは事故のようなものであり、それがきっかけで僕は体質が変わった。

 まず、twitterやfacebookというものから身を遠ざけたいと強く思うようになった。その代わり会いたいと思った人には直接面と向かって会いたいと思うようになった。なぜかといえば、過剰に「文字コミュニケーション」を演劇作品に持ち込んできた僕が、「文字コミュニケーション」たるものをなんら信頼していないことが(その事故によって)はっきりと自覚できたからであった。けれども、だからこそ、文字コミュニケーションは今後も範宙遊泳で遣っていくだろう。そこに己の作家的アイデンティティを見出そうなんていう腹積もりじゃなくて「信頼できない」からこそ一歩引いた信頼を、してみたくなるのだ。ともかく僕は、SNSを信頼できない、という僕自身の生理感覚に正直になれた。だからしばらくそれらに、活動に関する情報以外のなにものも、書くつもりはない。

 この延長線上で、携帯との付き合いのことも考えた。上記に書いたように僕は携帯電話の使い方が下手だ。ことあるごとに「あの人にメール返したっけな? 返さなきゃな」とか「あの人あんなことツイッターでつぶやいてたけど、僕のことだったらこわいな」などとやきもきしながら、かといってかかってきた電話に即座に反応するほどの気力も持ち合わせていなかった。こんなことでは疲弊してしまう。つねに携帯電話に手綱を握られているかのような妄想に駆られて、まるで己が携帯電話に仕える従者のような気さえしていた。

 稽古場で俳優によく言う「身体とそれ以外との主と従の関係」。演出家として偉そうに言っていたけれども、僕自身、携帯と僕の身体との関係の中で、主と従の関係を見失っていたのだ。

 けれども今は、それがみつかった。携帯を寝室の枕元に置いて寝ないようにし、22時を越えたらスリープモードにしてしまう。目覚まし機能も(もともと使っていなかったがなおのこと)使わない。携帯にタッチするのは1日10回までと決めて、それ以上はPCを使って対応する。外出の際も、近場なら持ち歩かない。以前は徒歩1分のコンビニに行くにも携帯を持っていったが、今はそれもしない。ポケットに入れると頻繁に触ってしまうので、カバンの中に入れるようにする。

 こうした以前の僕からすれば過剰ともいえる行動に移してみて、はじめてわかった。携帯は僕の「従」である。もう、誰かから来たメールにやきもきする必要はなくなった。ネット上のネガティブな言葉に感情を左右されることもなくなった。ただ良いと思った情報を、良いと思った時に、コンビニエントに利用する「道具」でしか、なくなった。

 「別に携帯は主とか従とかじゃねえ!」と言ってしまうこともできた。けれどもそれをしてしまうとまた、僕の悪癖の冷笑主義が顔を覗かせる。

 本来ナチュラルな動物であるはずの僕が、都市と科学との関係の中で、それを見失っていく・・・。こんなの矛盾している。都市も科学も、我々の生活をよりよくしようとして開発されたもののはずなのに。

 だからこそ、今は距離を考える。幅を考える。原理主義とか懐古主義とか、そういうことはけっこうどうでもいい。僕と「現在」との関係の中で、どちらが主と従であるかのシーソーゲームをしながら、楽しんで生きる。


そういうわけで、仕事のメールは即レスを心がけておりますが、ごくごくたまに返信遅くなったらごめんなさい。

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