友達とのこと

昨日はひさしぶりに友達と遊んだ。演劇"仲間"と呼べる関係の人はたくさんいるけれども、友達と呼べるような人が僕には厳しく見積もって二人くらいしかいない。昨日遊んだのはその二人のうちの一人。会ったのは2年ぶり。彼はしこたま酒を飲んで我が家に泊まり風邪を完治させて帰っていった。彼のことはSとする。

Sとは小学校からの付き合いで、中学高校も同じ。お互い山梨から上京して大学は離れたけれどそれでも頻繁に遊んだ。たいていはテレビゲームで遊んで、成人して酒が飲めるようになってからは宅飲み。話題は共通の知人についてだったり、サウナに何分入っていられるかとかちょっと最近太ってきたとかそういう内容のない話で何時間も一緒にいられた。

友達と仲間の違いは僕の中では明確で、一緒に仕事をしたらそれは仲間、そうでなければ友達。さらに、友達は中身のない話でも何時間でもいられる人、であり、仲間はある種の緊張関係を保てる人、である。僕にとって、仲間といる時の幸福と友達といる時の幸福は全然別のものだ。けれども僕は欲張りだから、幸福を独り占めしようとたいていの友達を仲間にしてしまう。それでできたのが範宙遊泳だ。一度緊張関係が生まれると、もう友達には戻れない。友達が仲間になることはあっても、仲間が友達になることはない。

Sは数少ない"仲間にならない友達"だったから遊ぶ時間は楽しかった。罰ゲームを賭けてトランプをする。その罰は気になっている女の子に電話する、という内容で、それがきっかけで恋が実ったり実らなかったりした。意中の相手だからおどけて過剰にテンションを上げていかなければこちらも辛かったりして、電話越しよく言われた「ほんとに男子ってバカだよね」。バカなことをする時間は大事だった。

けれどもバカなことをする時間が減っていく。それは大人になるということなのだろうか。年齢に比例して、少しずつ、お互い昔よりは冷静に自己と将来を分析できるようになってくる。毎日恋に身悶えたり不正に怒りを感じたり過敏に人を嫌悪したり、そういうようなことが減っていくのと足並みを揃えてバカなことをする時間が減ってくる。気がつけばSと会わなくなっていた。

『永い言い訳』という西川美和監督の映画に「人生は他者だ」というフレーズが出て来るのだけど、まったくその通りだと思う。友情も恋愛も亀裂も連帯も面倒臭いものだ。でもその面倒臭さの中にしか喜びはない。Sは「面倒臭い」が口癖で事実面倒くさがりなのだけど、僕との関係を面倒くさがらず10年以上付き合ってくれた。そして昨日、2年ぶり、面倒臭がらず山梨から遊びに来てくれた。

内容はここには書けないが、今日は彼にとって特別な日だという。彼がその特別な日の前日に僕と会ってくれたことを嬉しく思う。もう昔のようにバカはできない。でもまた遊ぼう。

いつだって人だ。人だ。人だ。人だ。



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