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『囲碁と将棋はどう違う?』(6)

(マガジン『作家・湯川博士』)
 
 
 作家・湯川博士の『なぜか将棋人生』に収められている作品「囲碁と将棋はどう違う」は、(5)で明治期の囲碁将棋界を語り、今度、大正、昭和初期の説明となる。
 

実力名人制の時代へ 

 囲碁界も利害によって離合集散を繰り返したが、大正13年になって、財団法人・日本棋院が設立される。この設立にあたっては、大倉喜七郎が全面的に骨を折り、以後の経営も大倉組に負うところ大であった。ここで興味深いのは、創立の趣旨である。
 
「……斯道の進歩発展を計らんと欲せば、まず有為の棋家を後援して心後顧の憂を絶ち芸業に安んじて天職を尽くさしめざるべからず」
 
 つまり棋士の生活を安定させ、芸に安心して打ち込ませるために作ったということだ。棋院は、棋士の団体ではなく、棋士を援助し扶養しようという団体だったのだ。
 大倉喜七郎は当初年間3万円の大金を支出していた。他の会員が年10円、特別会員でさえ30円だったから、いかに大倉に依っていたかがわかるだろう。しかし棋院の経済面は外部の代議士らの介入により乱れ、赤字に悩むことになる。それと、大倉組という特権的存在への反発もあり、棋士も木谷、橋本、村島、呉らの青年中心となって、新しい局面に向かった。
 
 昭和8年に、呉、木谷が発表した「新布石」は一大センセーションを巻き起こした。しかし本因坊秀哉はこれを評価せず、呉ー秀哉の対戦が実現。そして昭和13年には、秀哉の引退碁が木谷との間に半年にわたって打たれ、天下を沸かしたのである。
 
 それまでは大衆との結びつきに弱かった囲碁が、この時代は新布石の登場、本因坊引退で大いに沸いたのである。この本因坊引退は先に行なった将棋実力名人制に刺激された面もあり、時代の流れに押されたともいえる。この本因坊の名跡は、東京日日新聞(元毎日新聞)が5万円(5億円相当)で買い取ったのである。
 
 将棋の方は、大正10年に関根十三世名人が誕生し、13年には東京将棋連盟ができる。そして昭和10年には自ら名人を退き、実力名人戦を提唱して世間を驚かせた。
 
 明治以来囲碁界に遅れをとっていた将棋界は、実力名人制移行に際して初めてリードしたといえる。ここには将棋連盟と日本棋院の違いが顕著に出ている。棋院は棋士の団体でないため、本因坊の名跡問題は棋院の問題でなく、本因坊個人の問題であったこと。将棋の方は、純粋に棋士の集まりであるため、名人問題も棋界のためと考えることができたのであろう。
 
 したがって、本因坊戦は毎日新聞のものであるが、将棋名人戦は日本将棋連盟のものなのである。

 
 上記の、本因坊秀哉の引退碁は小説になっている。川端康成の『名人』だ。
 
 ぼくはこれを読んだとき、面白くなくて投げ出そうかと思った。薄い文庫なので、なんとか読み切ったが、苦痛だった。
 なぜ面白くなかったのかというと、現在の囲碁将棋のタイトル戦を思い描きながら読んだからだ。まだ、当時の状況を認識していなかった。途中疲れて休んだり、ちょっとしたことに腹を立ててやめちゃったりして、「これって本当の話なの?」と疑問に思いながらページを繰っていた。なんだこりゃと思いながら読んでいるのだから、面白く感じるはずがない。
 この当時の対局は、一種の舞台のような感じだった。ある程度のロングラン上映が普通なのだ。江戸時代のお城将棋も、1局を休みながら数日かけている。
 
 舞台のようだったから、要人がちょこちょこと顔を出している。
 連珠の名人も出てくる。今も残っている連珠だが、この小説の当時こそ囲碁将棋と同じ立ち位置だったが、競技者がそれのみの収入で暮らしていけるような残り方はできなかった。
 ゲームの複雑性が囲碁将棋ほどではなかったからかもしれない。

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