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将棋の終盤は、「秒読み」という地獄!(その2)

 
(その1)の続きです。

 
 将ペンチーム発足時はチーム監督をしていた。
 
 監督というと偉そうだが、ようは、単なるまとめ役。人が想像する監督像とはまったく違う。
 
 当日の雑用をこなすのは、でも、たいしたことがない。最もたいへんだったのは、7人揃えることだ。社団戦は7人対7人の団体戦なのだ。
 
 普通のチームとちがって、将ペンチームは、将棋ペンクラブを宣伝するために発足したチームだ。一般的なチームのように、何人かが将棋を指したくて、大会に出たくて、申し込んだというものではない。だから、3,4名の「核」となる人を除いて、メンバーがいないのだ。だから、毎回調達しなければならない。
 
 さまざまな人に声をかけて、出てもらった。「今回だけ」と言って、通常は他のチームに参加している人が将ペンチームに出てくれたこともあった。1度出場したら、1年間はそのチームでしか参加できないのだ。だからその年に限っては、その人は、今まで出ていたチームに不義理することになる。
 
 
 助っ人で思い出に残る人も多い。元近代将棋編集者でアマ強豪のYさんは、本当に強かった。足掛け3年くらい参加してくれたが、1度も負けていないのではないか。
 
 Yさんは、亡くなられた将ペン幹事の中野さんが誘ってきてくれた。中野さんは元近代将棋編集長。その関係で誘ってきてくれたのだ。Yさんは強かったので、いつも相手チームのエースと対戦してもらったアマチュア棋戦なのでだれがエースだか知らないのだが、なんとなく雰囲気で分かるのだ。
 
 上手い人同士の対局はなかなか終わらない。どちらも決め手を与えず、拮抗状態が続くからだ。だからぼくは自分の対局が終わってからYさんの対局の終盤を観ることが多かった。あるとき、終盤の秒読みの中、Yさん、単純な桂馬での王手竜取りを食らった。横から観ていても分かる、完全な見落とし。打たれた瞬間、秒読みで忙しない中だというのに、Yさんはガクッと首をうなだれて苦笑した。「なにやってんだオレ」という感じで。
 
 さすがにこれまでと思った。終盤では大駒の価値が極端に落ち、取られても大して響かないことも多いが、正直、素人目にも形勢が傾いたのが分かった。しかしYさん、その後粘りに粘って逆転勝ちしていしまった。投了後、相手の若者が天を仰いでいた。細かい手までは覚えていないが、その終盤の雰囲気を、10年以上経ったのに今でも覚えている。若者が投了した瞬間に緊張が解け、取り囲んでいたギャラリーまでもが一斉に息を吐いたのを記憶している。
 
 
 Yさんとは別に、若いときは相当強かったんだろうな、と思わせる人がいた。聞けば、以前は、毎年トップクラスにいるチームで出ていたとのことだった。仮に、Oさんとする。
 
 Oさんはかなりご高齢で、とにかく時計が不安定だった。観ているこちらがハラハラするのだ。
 
 指しても、時計を押さない。秒読みに入っているときなど、もうこちらとしては声をかけたくて仕方ないのだが、教えれば反則だ。だからひたすら念じる。「時計に気づいてくれ!」と。
 
 だからOさんの将棋を観ると、とても疲れるのだ。ちゃんといい手は指すのに、時計が切れて時間負けとなってしまう。ときには優勢どころか勝勢のときもある。しかし、いかに相手の玉が詰んでいる状態であろうと、時計を押し忘れてこちらの時間がゼロになれば、こちらの負けだ。
 
 終盤、1手指した方がよく見えるという大接戦。Oさん、持ち駒の中で1枚しかない金駒をちょんちょんと触っている。どうしよう、どっちに打とう、という感じで。
 
 自陣に打てば、とりあえず自玉は安全になる。しかしそれでは、攻め駒が不足してしまう。そこからあらためて手数をかけ、攻め駒を補給しなければならない。その数手の間に攻められてしまいそうだ。
 
 だから金駒は攻めに使いたい。でもそこで手放せば受け駒がなくなってしまうので、攻めに使った以上は詰まさなければならない。詰まなければ、攻められて負けだ。攻めか受けか、方針の分かれ道。Oさん、盤面に顔を覆わせながら、「金」を中空に浮かしている。
 
 時は無情。待ってはくれない。デジタル表示は進む。20秒がすぎ、時計はピッピッと1秒単位で鳴る。そして残り5秒を切ってピーッと連続音。攻めか、守りか!? Oさん、「金」を盤上で揺らしている。迷い箸かのように。
 
 3,2、1……。もう時間が! Oさんはバシッと「金」を敵玉の斜め上に。そして指した手で時計上部のボタンをバシン。時計のデジタル表示は「1」。残り1秒! でもルール上、1時間だろうが1秒だろうがセーフ。時計はその緊迫感などよそに、今度は相手側の30秒を淡々と減らしていく。
 
 Oさんは攻める方を選択した。もう後戻りはできない。「えっ、詰むの、これ?」と、取り囲むギャラリーたちの首が一律ズイッと前にのめる。皆が頭の中で詰め将棋を始める。
 
 こういうときは、時間に追われているという意識があるから、指したあとに時計に手が伸びるのだ。「時間を止めないと!」という意識があるから。 
 
 だからここで時計の問題は起こらない。その後にマズい場面がおとずれる。
 
 Oさんに「金」を打たれて王手をかけられた相手が、応手を考えている。その「金」を取るべきか、玉を逃げるべきか。また逃げるとしたら、どこへ?
 
 相手も30秒を目いっぱい考える。10秒でピッと鳴り、20秒でピッと鳴り。そしてOさんも考える。相手がこう逃げたらこう、こっちに逃げた場合はこう、と。相手の考慮時間に、自身の次の手を考えるのだ。将棋で両者秒読みに入ったら、休んでいるひまは1秒もない。
 
 そして相手が残り3秒で、Oさんが打った「金」を「銀」で取ってきた。これはとりあえず応手が簡単だ。「銀」を取り返す一手だからだ。「角」で取るか「桂馬」で取るかだが、しかしまぁ、常識的には「角」だ。王手をしながら「馬」になれるのだから。ただ一応、「桂馬」で取った場合も少し考える。
 
 次の着手が決まっているこの瞬間が、時計的には最もヤバい。いくぶん余裕ある手つきで王手をかけたあと、その後の詰み筋をじっと考えてしまうからだ。
 
 切迫していない分、時間への意識よりも、「この後どうやって玉を追っていけばいいのだろう?」という意識が上回ってしまう。バシッとひっくり返した角を盤に叩きつけながら、頭は詰み筋の検討でいっぱいになっているのだ。
 
 やはり懸念していたとおり、Oさんは着手のあと、時計に手を伸ばさず、おもむろに腕組みをしてしまった。あぁ、とぼくはそこで頭を抱える。もちろん、心の中でだ。派手なゼスチャーも「アドバイス行為」にとられて反則負けとなってしまうからだ。
 
 相手は今成ったOさんの「馬」を取り返す一手だ。玉が逃げるのであれば、「馬」を作られる前の方がいい。先ほど「金」を取った以上、この地点で清算していくのが必然なのだ。仮にOさんが「桂馬」で「銀」を取ってきたのであれば、逃げる手はあった。しかし「角」成りで取ってきたのであれば、取り返す一手だ。
 
 「飛車」で「馬」を取り、Oさんがその「飛車」を「桂馬」で取る。それを相手が取るか、逃げるか。ここまでは必然の流れ。
 
 しかし相手は「飛車」に触れようとしない。じっと盤面に顔をかぶせている。何故か? Oさんが時計を押し忘れているからだ。
 
 時計は進み、残り10秒を切ってピッピッと鳴り、それが連続音になる。しかしOさんの腕組みは解かれない。じっと詰み筋を考えている。時計の音は耳に入っているが、相手側の警告音だと思ってしまっている。
 
 そして、無情にも時計がゼロ表示に! 相手が顔を上げ、時計を指さす。一応カタチ上、申し訳なさそうに。Oさんの時間切れ負け。
 
 ギャラリーの中から、「もったいない。詰んでましたね」とOさんに言う人がいる。それがなぜか、敵のギャラリーからということが多かった。勝った余裕というやつだろうか。まぁこの時点で、味方がなかなか言えることではない。
 
 そういう場面を、何度も見てきた。Oさんの全盛時は、泣く子も黙る1部リーグでアツい対局を繰り広げていたのだ。それが今では……。「時」とはなんと無情なことか!
 
 隆慶一郎の名作『影武者徳川家康』の下巻で、二郎三郎扮する家康と、豊臣方の使者とが相対する場面を思い出す。大阪冬の陣で、大阪城を攻める直前のやり取りだ。この家康の影武者は豊臣家の存続を望んでいたが、二代将軍秀忠がなんとしても潰したがっていたのだ。
 
「よく聴いてくれ、権右衛門」
 
 家康が沈痛な声で言う。権右衛門とは、大阪城からの使者、米村権右衛門。その声から、恐ろしく重大なことが語られようとしていることを直感している。このやり取りは小説中の名場面だ。
 
「わしにもどうにもならぬものがある。寿命と時の勢いだ」
 
 天下人家康でさえ、時の流れにはどう抗うこともできない。今や時勢は二代目に流れ、抑えられない。豊臣の存続には、秀忠の非道なやり口を我慢して下手に出て、ことを収める以外にない。家康はそう言っているのだ。今の自分の力ではどうにもできない、と。
 
 時の流れは、天下人の力さえも落とす。だから人の注意力など、落ちて当然だなのだ。頭では分かっている。しかし目の前で見ると、けっこうつらい。
 
 秒読みは、「老い」というものを意識させる、非情なものなのだ。

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