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『囲碁と将棋はどう違う?』(5)

(マガジン『作家・湯川博士』)
 
 (4)で『碁所・将棋所の設立』が語られ、壮大なゲームの成立から、ゲームの根付きに話が移った。
 江戸時代から、今度は明治期になる。さらに、今の状況に近付いたわけだ。
 極端に言うと、江戸期は、公務員の一端に加えてもらったというカタチで、明治期は、会社の設立をしたというカタチ。囲碁も将棋も、それぞれ資金や人材を集めて、団体として発足した。

将棋遊歴と囲碁再興 
 
 江戸時代に置いて、囲碁上層階級、将棋庶民階級に分かれ、明治時代にはそれが著しい差になる。
 
 囲碁・将棋所とも、明治維新によって崩壊し、家元はみじめな有様となる。実力ナンバーワンの本因坊秀和でさえ、小さなバラックに住みその日の米ミソにも困る始末。秀和の跡目を継いだ秀悦などは、悲痛のあまり発狂したほどだ。
 
 しかし維新の激動も収まり、再興の声が高まり、明治12年には方円社が設立される。この方円社は大正13年に日本棋院ができるまで、本因坊家と対立する一大勢力になるのだ。なにしろ賛助者には、井上馨、山形有朋、大隈重信、岩崎弥太郎、渋沢栄一など、明治維新の大立者を網羅、その数百人余りというからすごい。そして免状も独自に発行したのである。
 
 一方の本因坊家もはじめは方円社に押されていたが、明治19年に四象会を設立。後援には明治の豪商高田慎蔵氏夫人民子がついた。こうして明治の囲碁界は、二派に分かれていたが、両方とも上層階級の旦那に支えられ再興し始めた。
 
 このころの将棋界はどうだったか。維新で碁同様家元は崩壊したが、わずかに十一世名人の伊藤宗印は本所の将棋所で細々と暮らしていた。他の連中は諸国を漫遊してわずかな愛棋家を訪ねて歩く生活となる。それも乞食同然の姿で、腹を空かせ犬に吠えられるような旅だった。当時の将棋はすべて賭け将棋であり、お稽古をするなどという客はごく稀な存在だった。
 
 この明治の遊歴時代も、明治の40年代に入って終わりに近づくことになる。それは新聞に将棋が載るようになるにつれ、将棋指しに光が見えてきたからであろう。かくして明治42年に関根八段など、23人の将棋指しが集まって将棋同盟会を発足。そのあと、関根、土居、大崎、井上の4派に分かれたが、なんとか将棋界の再興が見えだしたのである。
 
 明治維新という大激震によって囲碁も将棋もいったんはガラガラと崩れた。幸か不幸かここで再び囲碁将棋は同じスタートラインに並んだわけである。しかしその再興を見ていると、囲碁はいち早く政財界の大物たちの肝煎りで復興。対して将棋の方は再興の見通しも立たず、放浪の旅へと散っていった。そして再興の兆しが見えたのが明治末期。再興に際して違うのは、
囲碁が旦那に依り、将棋は仲間だけで立ったことだ。 

 
 井上馨、山形有朋、大隈重信、岩崎弥太郎、渋沢栄一とは、囲碁界の方円社もすごい人たちを集めたものだ。『免状』というのは、「あなたはこれくらい強いですよ」というプロのお墨付きだ。多くの分野では、技術の習得だけでなく、それ相応の金も払う。『免状』がよく分からない人は、「仮想通貨」だと思ってください。そこそこの人数が価値があると認めたものは、高価なものや権威あるものになるのです。
 
 とにかく、「古くから続く、日本古来のもので、朝廷や将軍などにも愛好されていた」として、権威付けが必要だった。
 今、残っているから、残るのが当然の流れに感じるかもしれない。しかし囲碁界も将棋界も、その団体を維持して継続させるのは、たいへんだったはずで、残すための多大な努力の結果、残ったのだろう。他のボードゲームや競技では消えてしまったものもいくつかある。
 
(6)につづく

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