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今も元気な湯川恵子さんの「遺筆集」

 
 既製品と手作りの品。どちらの方がもらってうれしいかと問われれば、当然手作り品。もちろん手作りでも粗悪であれば困りものだが、でもそれがプロの作ったものであれば、文句なく永久保存版だ。
 
 表題部の画像は、湯川恵子さんの手作り本。プロの手作り本ということで、永久保存版としてずっと保管している。これは恵子さんが生前葬を行った際、参加者に配られたものだ。編集は湯川博士師匠で、おそらく限定50部くらい。
 本人は生きているが、一応レストランに坊さんを呼んでお経をあげ、葬儀はしたので、これは『遺筆集』ということになる。収められた作品はすべてなにかの媒体に発表した文章の抜粋なので、遺稿集ではない。
 
 恵子さんの文章は軽快さが特徴で、またコラム的な短文での発表が多いので、しぜん、コミカルな要素を含んだ作品となる。ここに収められているものも全体的にそうだ。しかし、ラストの作品だけは色合いを異にする。
 タイトルが、「真夜中に来た真剣師」。他の作品はカラッと乾いた感じだが、この作品だけはジトッと湿っている。そしてその湿り気が、妙に粘着的だ。また、この作品だけが突出して長い。原稿用紙20枚をこえているのではないか。この『遺筆集』の半分近くを占めている。
 巻末の師匠の解説には、これが湯川恵子初の作品だという。とても意外だ。読むと、手練れの書き手の文章に感じる。恵子さん、これを書いた時点ではアマチュアだったのだ。
 
 もっとも恵子さん、高校時代には夢枕獏さんと2人で同人誌を作っていて、2人だけではさみしいからと、いくつもペンネームを作って複数の作品を書いていたとのこと。勝手にどんどん書けちゃう人なのだ。
 
 
  
 この作品をとっても簡単に要約すると、師匠が将棋スナックで仲よくなった真剣師を家に連れてきてしまい、数日間居つかれてしまったという話だ。実際にあった話で、登場人物も実在しているが、この作品では全員の名前を変えてある。
 
 のそっと深夜に現れた得体の知れない男2人が、なかなか去らない。またその男のうちの1人がおそろしく無口で、滞在中ほとんどしゃべらない。そして上京したのが小池重明との番勝負をするからという理由で、3勝2敗で無口な男が勝ってきてしまう。
 
 実話なのに肉付けが上手く、これはもう、ひとつの文学作品だ。仮名にした効果が出ていると言っていい。
 
 恵子さんは前記事で書いた自著『女の長考』の、17章「落とし穴」でもそれをちょっと取り上げている。ただ、こちらは軽快なカタチで、またその真剣師も本名で書かれている。

 その頃私は普通の奥さんだったから、真夜中にヌッと素足で現れた彼を見て、一緒にやってきたY氏の人相風体ともども、やたらと不気味な感じに襲われたのを覚えている。小池さんとの勝負のために上京したのだが、私は、これが噂の真剣師というものかと、勝手に恐ろしがったり憧れたり。
非常に無口な人で、同じ屋根の下に4日いて、私はとうとうひとことも口をきかなかった。

 この真剣師は、伝説の真剣師小池重明が最も苦手とした伝説の安嶋正敏。「陽」の小池、「陰」の安嶋と言ったところか。書ける人であれば、大抵は「陰」の人間の方が素材として使いやすい。
 
 ただこちら『女の長考』の方はエッセイ調なので、さほどこの人物の持つ異質の雰囲気に重点を置いていない。異彩を放つ男、というより、田舎の朴訥な人、といった感じで書かれている。

 小池さんに勝ったその晩、黙って盤に並べてくれたのがA図。必死のがれの必死の問題。

 そのA図が下記。図の横の1行が、その場にいたみんなをどれだけ悩ませたか分かるというものだ。

真夜中に来た3

 
 またこの章では、安嶋正敏の弟子と称する青年が恵子さんに詰め将棋を出題する。

 ひと目、意地悪そうな匂いのする形。この種の作品には手を出さないからこそ、私今まで笑顔で生きてこれたのだ。しかしいかにも爽やかに、駒の数が少ない。これになんと5手詰みだと言う。たったの5手! つい、気をやってしまった。

真夜中に来た2

 その酒場にいる人のだれも解けず、これを考えて恵子さんは終電を乗り越してしまったという。たしかにこれ、酔っぱらって考えるにはきつい問題。
 
 
 
 『遺筆集』の「真夜中に来た真剣師」には、この2つの問題図は乗っていない。文章の迫力を阻害するものは、排除されている。ただただ読み物として、文字が連なっているだけ。
 
 これまで何度も読み返している。

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将棋がスキ

書き物が好きな人間なので、リアクションはどれも捻ったお礼文ですが、本心は素直にうれしいです。具体的に頂き物がある「サポート」だけは真面目に書こうと思いましたが、すみません、やはり捻ってあります。でも本心は、心から感謝しています。