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「与えない」という愛情


現代では、子どもに何かを「与える」ということが簡単になりました。
そこで今は「与えない」という愛情があることを知る必要があります。
それから「本当に与える」とはどういうことかを考えてみましょう。


「与える」ことは簡単になった

現代において、子どもに何か、特に物を与えてあげるのは簡単になりましたね。もちろん色々な事情で難しいご家庭もあるでしょう。それでも過去数十年を振り返っても、しやすくなったと思います。

物が少なかった時代は、とにかく我慢するしかありませんでした。

私の母親は兄弟姉妹合わせて4人いるのですが、子どもの頃はバナナが高級品で、1本のバナナを4人で分け合ったといいます。「でもそのぶん、とっても美味しかった!」と言っています。

また私が子どもの頃は、まだビデオデッキが家になく、観たいテレビ番組があればその時間にテレビの前にいる必要がありました。そのため同じ番組を何度も観ることもできません。初めて家にビデオデッキが来た日の感動を覚えています。「これでいつでもドラえもんが観られる!」と笑。

でも現代はどうでしょうか?

今、バナナは安く、いつでも手に入りますよね。1人で1房食べることもできるでしょう。そして世界中の美味しい食べ物も手軽に食べることもできます。でもそのぶん、私の母が味わったような「本当に心の底から美味しい~」と感動することは難しくなった気がします。

また例えば電話機は今や1人1つ。でも昔は家に1台でしたよね。
あの高価だったパソコンも、最新型は今も高価だとはいえ、安いものであればあるいは親御さんのお古であれば、子どもに与えられるくらいになったと思いませんか? むしろそれどころか、子どもの為ならと最新型を与えてあげることもあるのではないでしょうか。

なお、このような物が溢れる現代においては、子どもにあれこれ言わるくらいなら、買った方が楽だという声も聞きます。「ほしい!ほしい!」と言われたら、「うちはこういう理由で買わない!」とわざわざ説明するより、買ってあげた方が楽だと。

でも物があることや与えることが、本当に本人のためになっているのか、何度でも考える価値のあることだと思います。


「与えない」という愛情

例えば東京サドベリースクールでも、料理に興味を持った生徒がすぐに料理ができるように、スクールの予算を使ってキッチン用品をあらかじめ揃えることもできます。
むしろ東京にある利点を活かして、東京・浅草にある料理道具専門街『合羽(かっぱ)橋』に繰り出して、様々な料理道具を揃えることもできるでしょう。

そうやって、あらかじめ揃えることでのメリットはもちろんあります。

料理に興味を持った生徒がすぐに気軽に料理ができますし、作りたい料理に必要な道具が揃っていればその料理を作ることもできる。
また言い方がよくないかもしれませんが、料理道具が揃っていた方が、入学検討者にも保護者の方にも“ウケ”がいいでしょう。

でもそれが、本当に子ども自身のためになるのかは、よく考えた方がいいと考えています。

例えば、生徒が近い将来、大人になってしたいことがあるときに、目の前に何もかもが揃っていることはおそらくありません。たいていは、それをする時間とお金と道具を、自分で何とかしなければならない。

自分でなんとかせずいつも揃えてもらってきた子が、大人になって自分のしたいことがある時に、いきなり自ら動いてなんとかしていく力があるでしょうか。

以前いらした大学生の新人ボランティアスタッフが「教えてもらってないから」と言っていたことがありました。自然に何でも教えてもらえると思っている(むしろそれすら思っていないほどに当たり前になっている)のです。何でも自動的に与えられていると、こういうことになるのだと痛感しました。もちろんその後、その学生の方は素直な方でしたので、サドベリーでの時間を通じて、自ら気づく、考える、動くことを学ばれて就職されていきましたが。

これは自分で決める経験をしてこなかった子が、大人になって自分で決めることができないのと同じです。


私たちは、子どもが何かしたいことがある時に、自分で何とかする力を奪ってしまわないか、いつも気にかけています。

そのうえで、「しない、与えない」ということをしています。でもこれは「サービス」という面からみると非常に「サービスが悪い」んですね笑。
なぜなら世の中はおおむね、相手の望むものを先回りして用意する・与えるのが「サービスが良い」とされているからです。

しかし、ぜひ東京サドベリースクールの教育方法(教育がサービスというのかはともかくとして)は、『しない・与えないことで生徒自身が自ら気づく、考える、動く力をつけやすくしている』と知っていただければと思います。

もちろんだからといって、これまで揃えてきた物を毎年捨てる必要はありません。でも以前いた生徒や、時にはスタッフが「こうやって揃えてきたんだよ」ということは伝えるようにしています。


現代では、物が豊かに溢れているので、あるのが当たり前だと思いやすい。でも、それが物であれ、権利であれ、平和であれ、あることの歴史や感謝があれば、本当は当たり前に揃っているということではないことがわかります。それは物が豊かになった分だけ、心も豊かに使っていかないといけないということでもあります。


「本当に与える」とはどういうことか

これまでご覧いただいたように、スタッフは生徒に物であれ思想であれ、何かを「与える」「与えない」ということに、とても注意を払っています。
では「与えない」だけでいいのでしょうか。「本当に与える」というのはどういうことでしょうか。

本当に与えるというのは非常に難しい問題です。
これはスタッフも毎年、いや毎日、心も頭も体も使って格闘しているといっていいでしょう。


例えば生徒の木登りを例にします。
彼はこれまで、地面からジャンプして木にぶら下がることまではできていましたが、幹に足をかけて、枝に登るところまではできていませんでした。本人は木に登りたく、何度もチャレンジしていたのですが、なかなかできません。

そこで、例えばこの時近くにいたスタッフは、生徒が登りやすいように下から手を与え押し上げることもできます。それも悪いとは思いません。
しかし、この時スタッフが手を出さないことで、本人が自分で登るチャレンジをしている時間や空間を与えていると言えます。

自分で達成したことは、誰かに勝手に手を貸されたよりも満足感が高いものです。もちろん本人がサポートしてほしいと自ら言ってきたのなら、そしてスタッフがサポートすることで生徒が成長できそうだと考えたのであれば、サポートしたらいいでしょう。

でもそうでなく、スタッフが勝手にサポートしたら、それは生徒本人にとってはサポートではなく、生徒が自分の力でやることのジャマをしてしまったのかもしれないのです。
良かれと思ってしたことが、真逆の結果になること、ありますよね。

スタッフはこういうとき、とっさの判断を迫られます。瞬発力の勝負のようなところがある。だから日頃から、よく考えておく必要があります。

またある生徒は入学して料理が好きになったのですが、スクールには料理道具があまりありませんでした。スタッフがあらかじめそういうことを想定して揃えることもできましたが、あえてしていませんでした。それは、料理をしたい生徒が出てきたときに、自分で何とかしていく経験をさせてあげたかったからです。

実際にその生徒は原価の安いドーナツをたくさん作って生徒やスタッフに売ったり、寄付を呼びかけて道具を手に入れたりしていました。
もちろん本人のもともとの力もあったと思いますが、今は自分のお店を開いてオーナーになっています。


またこれは親御さんでも同じ場面があると思います。
例えば突然子どもが、「これを買ってほしい」と言ってきた時に、買わないにせよ、買うにせよ、「こういう理由でうちは買わない(買うのだ)」とちゃんと言えるといいですね。そうすると、「あ、うちはちゃんと考えているんだな」と子どもはわかってくれます。
もし自分が子どもだったら、そう思うと思いませんか?


また、東京サドベリースクールは社会でより良く生きてほしいと考えているので、主権者教育の観点から、生徒もスクールの様々なことに1票の権利と責任を持てるようになっています。みんなのこと(例えばスクールの経営やルール作りなど)はスクールの公的なミーティングで提案できるようになっています。

このミーティングで、生徒が何か提案してきたときに、スタッフはいい顔をして「OK、OK」と言っていた方が、これもまた“ウケ”がいいかもしれません。
「子どものことを応援してくれている」と、保護者の方にも思ってもらいやすいかもしれませんね。

でも本当に応援するということはどういうことなのか。もちろん良いと思った提案であれば、すんなり「OK」を出すのも1つの解です。
と同時に、各スタッフが様々なことを考えて、「NO」を出すこともあります(もちろん生徒が生徒にNOを出すことも、生徒がスタッフにNOを出すこともあります)。
あるいは、「自分はこういう理由や、こういう条件なら、みんなのお金を使うことに対してOKだと思うが、どうだろう?」など、様々な提案を出すこともあります。

どうしてそれを購入する必要があるのか、なぜスクールの予算から出す必要があるのか。購入したら、あるいは購入しなかったら、スクールにとっても本人にとっても、どういう意味がもたらされる可能性があるのかなど、よく考えます。

そしてスタッフが「NO」と言ったとしても、そういうことを含めて考えて「NO」をしたスタッフのことを、わかる生徒はわかってくれます。

こういう見えないプロセスも含めてこそ、本当に与えるという一環でもあると考えています。
本当に与えるということは、本当に難しいものです。


ちなみにミーティングで生徒の提案へのスタッフの意見や評価を嫌う人もいますが、みんなのお金を使うために、その妥当性を問うのは当たり前のことなので、生徒が言えば何でもOKというも本当に与えることだとは考えていません。その人を人として受け入れるということと、提案を何でも受け入れるということは全くの別物です。
思想家のジャン・ジャック・ルソーは「子どもを不幸にする確実な方法は、いつでも何でも与えてやることだ」と言っています。

そして「自分はあなたの提案にOK出すから、次自分の時にはOK出してくれよ」というのも本当ではありません。あくまで議題が妥当かで判断される必要がありますよね。でも人間社会では大人や子どもに関係なくよく行われることでもあります。

こういうことを考える時、生徒同士もさることながら、スタッフも自分という人間の在り方や、言葉、そして行動が、生徒に様々な影響を与えていると言えます。皆さんも誰かの1つの言葉、1つの行動が、人生でずっと残っているということはありませんか?

そう考えると、本当に与えるということは、スタッフの全人生をかけてしていることなのかもしれません。


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