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教育に上下はない

サドベリー教育に関わってきて、よく他の教育(特に公教育)についての批判を聞く。また公教育以外を選んだ人がなりやすいことに、「自分たちはすごい」と言う人も多い。この教育を選ぶ親子は次元が高いとか低いとか、そういうことを言う人もいる。

でも、私はそれぞれの教育に合う・合わないはあると思うが、人権侵害がないことを前提にすれば、教育自体に良い・悪いはないと思う。
ましてやサドベリースクールに通っているから偉いわけじゃないし、公教育の学校に通っているからダメなどということもない。もちろんその逆もない。ただ自分が学びたいことがあって、それに合った通いたいところに通えばいいだけだ。

そして、何を選んでどのような教育の環境で育ってきたかより、その人物がどのような人間であるかの方が重要だと思う。その人自身のことを見た方がいいと思う。サドベリースクールでも、公教育でも、もちろん他の教育でも、素晴らしい人格の生徒や卒業生がいる。

古今東西様々な教育が生まれてきたし、また今日では文明の発達に伴ってその手法も多様になっている。これからも色々な教育や手法が生まれるだろう。

語学を習得したいのであれば、ひとりで気楽に学習するやり方から、カリキュラムがみっちり組まれた宿題もたくさんある学校に通うというやり方もある。もちろん、その言語の国に留学するというのもいいだろう。やり方は人の数ほどある。道はたくさんあり、そのうちのいくつかは自分に合う道かもしれない。しかし、わざわざ自分に合わない道を批判する必要はない。その道が合う人、好きな人もいるのだから。

教育でいえば、もし自分に合わなくても、その教育自体を批判する必要は無いし、ましてや学校や先生、友達のせいにする必要もないと思う。友達との関係悪化は、時に自分にも理由があることもあるだろう。また先生のことを悪く言う人は多いが、私は伝統的な教育の先生の友人もたくさんいるし、とても頑張っているのを知っている。誰かや何かのせいにすると、次の教育、学校、人間関係でも、同じようなことが起こりやすい。これは教育に限らず、仕事や恋愛にもいえる。

また、どの社会でも(たとえそれが家族という小さな社会であっても)、合う・合わないというのはあるものだ。だからといってなんでも我慢すればいいとも言わないし、我慢しなくてもいいとも言わない。教育も学校も育ち方も色々ある。人間もそれぞれだ。

社会で様々な生き方の人が共存しているように、様々な教育も共存できたらいいと思う。そして現代は大人が自由に仕事を選べるようになったように、親子が自分たちに合う学び方、育つ環境、教育や学校を、もっとフラットに選べる社会になれたらと思っている。子ども達が「僕はサドベリースクールに通っている。あなたは地元の公立学校、彼女はインターナショナルスクール、彼はホームエデュケーション。皆オッケーだよね」と、それぞれの生い立ちを尊重し合えたら素晴らしい。それぞれの興味や特性、ライフスタイルが違うのだから、選ぶ教育も育ち方も違ってくるのが当たり前だ。植物は自分に合った光や水、土壌のもとでこそ生き生きと成長する。人間も同じだ。

そういう社会になるためにはまず、一人ひとりがそういう意識を持って行動することが必要だと思う。年齢に関係なく、一人ひとりが自分と他人を尊重し、子どものためにも、社会のためにも、子どもが自分を育てやすい環境をつくる必要がある。子どもが自分に合った環境で自立して生きていけば、それは結果として社会も良くなる。でもやはりまずは大人からだ。

できることというのは、自分にできること、したいと思うことでいいと思う。たまたま私自身はサドベリー教育を知って、興味を持って関わっていくうちにどんどん好きになって、ずっと携わってきた。私は東京サドベリースクールを始め、今も働いている。私はスクール自体を始めたが、そういう考え方や色々な教育があることを人に教えてあげることでもいいし、ちょっとした寄付をすることも喜ばれる。実際に私はそういうことをしていただいて、本当にありがたいと思っている。私には子どもがいないので東京サドベリースクールに自分の子どもが通っているわけではないが、生徒達のために動いてくださる方々に本当に感謝している。

教育に興味を持ち、日本や世界の教育や学校を見てきたが、本当に教育に上下はないと思う。正解もない。でもその子、その子に合う教育や育ち方はきっとあると思うし、人間には選んだことを正解にする力もあると思う。私は教育に関わらず、楽しんでいて、そして一生懸命に生きている子ども達を応援したいと思っている。

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