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いつかその時


毎週の電話

毎週、静岡の実家に電話をしている。
固定電話があるので、家にかけると、父か母が出る。
「元気?」と聞き、「元気だよ」と返ってくる。そして、30分から1時間、今週何があったとか、家族の誰々がどうだとか、近況の話をして盛り上がる。

毎週、それの繰り返し。

時々そういう話を外ですると「偉いね」とか「仲がいいね」と言ってもらえるのだが、もちろん、昔から毎週電話をしてきたわけではない。
実家に住んでいる頃は、育ててもらっておいて「ん~・・」と思うこともあった。いい年頃になって家を出て、季節に1度、大型連休に1度など、年に何度か家に帰る。そういう時も、数日一緒に暮らしていると「ん~‥」と思ったりすることもあった。育ててもらっておいて、なんてやつだ。

今はそういうことは少なくなったが、それでも今後も、たまには思うこともあると思う。


他人

そういう時に思うことは、家族といえども他人なのだということ。もちろん家族だから、他人ではない。でもやはり、それが夫婦やパートナーであれ、親や子であれ、親友であれ、究極的には他人なんだ。

ましてや、先生や生徒たちも、職場や地域の人も他人。自分以外の人は全て他人なんだと思う。だからこそ、自分の気持ちばかりじゃなくて、相手も尊重しなければいけないなと思う。

そして自分で自分すらうまくコントロールできないのに、他人に期待したり、思った通りに動いてくれない、わかってくれないなどと言っても、仕方がないなとも思う。ましてや自分は期待されたくないと思っているくせに、他人に期待するのはちぐはぐとしか言いようがない。

でもやっぱりこれからも、自分のことを最上段に掲げて、また誰かに期待しちゃうんだろうな。そうして、また「ん~‥」とか思ったりもするのだろう。

親に対して子に対して、そして誰かに対して期待するのが人間なんだろう。期待するのは本人の勝手だし、それについてどう思うのも勝手だけれど、自分にされたらたまったものではないのだから、きっと相手もそれをぶつけられたらたまったものではないだろう。

大人は子どもに、毎日勉強して、運動して、いい点数を取って、いい子でいて、というようなことを期待するけど、それをまるごと自分が期待されたら、「うへ」となる。もちろん、それでやる気になる人もいると思うけれど。


記憶と気持ち

自分は10歳くらいまでの記憶があまりない。それは自分で考えてみると周りの期待に応えようとした子どもだったからかなと思う。
自分の中心が自分ではなくて、周りが期待する自分にしていた。それが当時、自分が自然に選んだ生存戦略だったと思う。いい子戦略。だから、心と身体がちょっとずれていたのではないか。だから記憶もあいまいなのではないかと、今は勝手に思っている。

だからといって子ども時代にすごく「期待してるよ!」などと言われ続けてきたわけではない。たぶん自分がちょっと“期待される”ことに対して反応しやすかったのかなと思う。

今はそのことで自分に向き合ったからか、期待されることも期待することも少なくなったように思う。“きたい”という単語に過剰反応しなくなってきたし、人に対して期待という名のコントロールをすることも減ってきた、気がする(でももししていたらごめん、これからも気をつけるよ)。

そういうこともあり、期待という面から自分に対しても他人に対しても、いい意味で適切な距離感を持ちやすくなった。やっと期待沼から抜けられたようだ。自分にとっては「期待」だったが、人によってその単語は違うだろう。でも自分に向き合い、それを受け入れていくと、自分が変わっていく。そうすると周りとの関係も変わっていく。

今は、期待されるいい子になりたくて毎週両親に電話をしているのではなく、両親の安否確認と会話そのものを楽しむために電話をしている。そしてその時間がとても楽しい。


朝、ニュースを観ると事件や事故などで、毎日誰かが亡くなっている。順番通りとなれば先に逝くのは両親だが、何が起きるかわからない。明日、自分がこの世にはいないかもしれない。そう考えると、死の間際にどういう気持ちでいたいだろう。そしてどういう記憶を持っていきたいだろう。それを毎日考えながら生きている。

あなたは、いつかその時が来るとき、どういう気持ちでいたいですか?
どんな記憶を持っていきたいですか?


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