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「性的広告」を巡る、本当の問題について考える

JR大阪駅で、露出度の高い服装の少女キャラクターが掲示された点について賛否に分かれた意見が繰り広げられました。

https://news.yahoo.co.jp/articles/a83e63c460d82adc5aab032a8bfa17a9ce49220e

例えばNewsPicksと言うSNSでのそれぞれの意見を見ると概ね以下の感じでした。

批判的意見:
・未成年を彷彿させる少女の露出度が高いイラストを公共の場で展示するのがダメなのだ。

擁護的意見:
・表現の自由の範囲。それを言うなら下着の広告はどうなのだ。究極、相撲のような競技はとうなのだ。

私はいずれの意見もやや異なると感じました。問題の本質はそこではないと思います。

問題点はどこなのか

公共の場云々と言うなら、しばしばブロンズ製の少女の裸体像が展示されています。
ではブロンズ像は芸術だがイラストは芸術ではないから問題なのでしょうか。
いえ、イラストであっても芸術作品であるはずです。そこは作者の意図と言うよりも、受け手の問題となります。一概に芸術作品ではないと一蹴する事はできません。

実は、問題はそこではないと思います。
本件は「萌え」要素を含んでいるので糾弾されるのだと思います。

日本ではアイドルに「萌え」を期待します。
これは「リアルな女性」ではなく虚像(アイドル)を演じさせる事で、非現実的な感覚へと受け手を誘うものです。
更にこれを広告に転用し、ある意味リアルでは実現困難な所作を二次元萌えキャラに課したのが今回の広告の訳ですが、これこそ現代社会の「鏡」と言う意味で、非常に興味深く思えます。
要するに日本では、女性は「萌え」要素こそが素晴らしく、そのような対象に対して大人が"間接的に"苦難を強いる事が社会構造となっているのです。
今回の広告はこれを彷彿させる象徴となっている為、特に為政者や社会活動家は、萌えキャラが性的なPRをする事に嫌悪感を示すのだと思います。

何なら、この国の女子大生のパパ活・売春率を調査してみたら良いと思います。
港区女子を見たら良いと思います。
婚姻後のセックスレスの割合を見たら良いと思います。
少女がもう少し年齢を重ねて若者女性になると低賃金で介護サービス負担させようとしていますよね。
そして「(精神的にも)大人の女性」になると価値を著しく失うと見なされますよね。

だから政治家や社会活動家にとって「性的なPRをする萌えキャラ」は深層心理的に、「救えなかった人たち」の象徴でもあり、「自らの無力」を示す象徴でもあり、「若者を搾取する事」を再生産すり事で成立しているこの社会構造の【欺瞞】への嫌悪感でもあるのだと思います。
言い換えれば、【見て見ぬ振りをしている大人たち】と言う事を深層心理的に指摘される事に対する拒否反応と言って良いと思います。

繰り返しますが、例えば女子大生は「学ぶ」ために中高年に性をPRし、売り、若者介護就労者は低賃金で高齢者のシモのお世話をする社会構造になっているのです。

このような社会構造にしてしまった事に対する潜在的な嫌悪感こそ、萌えキャラに対する性的なPRへの違和感の根源だと思います。

検証

では、検証してみたいと思います。
例えば以下のブロンズ像。割とそこらの公共の場にしばしば設置されている芸術作品の一例です。

福岡県春日市日の出ふれあい公園「浴」

長年設置されているものですので、特に問題はないものだと思います。
では、仮に別の場合で「新たに以下のような感じの像」が設置された場合にはどうでしょうか。

顔のみを件のものと入れ替えてみる

恐らくはクレームが殺到して炎上し、撤去を余儀なくされるのではないでしょうか。

だとしたらおかしな話です。
なぜなら、上の像はよりリアルな少女の裸体であり、下の像はリアルからは遠ざかっているためです。

結論

従って、本件は【非現実的な「萌え要素」を含む事でリアルから遠ざかると、むしろリアルを彷彿してしまう】と言うパラドックスな感覚が多くの人に生じ、これによって不快感を覚えてしまう・・と言う現象なのです。
問題の本質は、これをどう捉えるべきかと言う事だと思います。

私が思うに、我々の社会は余りにも「本音」を殺し、更には「深く考えない」事が容認されてきた社会と言う事ではないでしょうか。
国民の理想あるいは国家としてどのようにありたいのか?について「萌えキャラでありたい」と考えてきたのだと思います。
親に従順であり、せいぜい可愛げのある反抗程度で無力感や透明感を重視し、大人にならない事で責任から回避され続ける。
30年以上、我々には投票により政治を変える機会がありました。しかし我々国民は選択を誤り続けてきたのです。実質賃金は下落し続け国民は貧しくなっていきました。主権者は国民なのですから、責任は国民が取らねばなりません。
しかし萌えキャラであれば「えー、わかんなーい」で済む訳です。
事実、人々は何故選択を間違え続けてきたのは何故か、自分の投票は間違えていなかったか、どこがどう誤っているのか?自ら考えてきたでしょうか。
マスコミが小泉純一郎氏を担げば小泉政権に熱狂し、民主党を担げば民主党政権に熱狂し、民主党政権を叩けば民主党政権に騙されたと言い、アベノミクスの内容も不明なまま安倍政権を支持し、今でも自民党政権による誤った経済政策が選択され続けています。
しかしそのような責任を感じて何とかしたいと考える大人はどれ位いるでしょうか。

そして、そのしわ寄せが正に「リアルな少女ら」に降りかかっている事を、「萌え少女」である大人は見て見ぬ振りをしてきたのではないでしょうか。
だからそんな社会の象徴である萌えキャラへの虐待は、多くの人の深層心理的に訴えかけるものがあるのだと思います。

現に、バブル崩壊以降、日本が不況に陥ってからというもの、萌えキャラが台頭していき、随所で見られるようになっていきました。
同時に、リアルの少女は困窮していきます。
しかし萌えキャラは困窮していたり、被害に遭っていたりしてはいけないのです。
そうしなければ、見て見ぬ振りを継続できなくなるからです。

即ち、リアルの少女が特に何か優遇する訳でなくても困窮しない社会にしていけば、このような萌えキャラの露出度が高い事での問題は生じないものだと確信します。

同時に、冒頭のような「公共の場で露出度の高い少女のイラストを掲示するのがいけないのだ」といった本質とは思えない議論が先行する事で、上記掲載のブロンズ像のような芸術作品を製作する事への批判や抑制がかかる事を危惧します。

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