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伊丹十三映画4Kを観る④ 『マルサの女』〜伊丹映画の系譜と韓国ドラマ〜

伊丹映画の中でいちばん語られてきたのは、おそらく『マルサの女』でしょう。他でも語られているようなことをわざわざ書いても仕方ないので、ここでは、ぼくの私的な視点全開で語っていこうと思います。

『マルサの女』は、伊丹映画のスタイルが確立した作品と評されることが多いのではないかと思います。そしてそのスタイルは、伊丹映画独特のものであり、大手映画会社が製作・配給する他の映画とは異質のものである、と。実際、その後の日本映画を俯瞰してみても、伊丹映画直系の映画と言えるような作品は見当たりません。多少それらしき作品があったとしても、流れにはなっていません。そのことが今回、4K版で再見してみて、思いのほか大きな問題であるのではないかと感じたのです。
どういうことか?
説明しましょう。

21世紀に入ってからの日本映画は、お世辞にも盛り上がっているとは言えません。ヒット作と言えば、80年代に始まった「テレビ局製作かアニメ」という状況から、ほとんど進化していないように見受けられます。
では、それが伊丹映画(の系譜)とどんな関係があるのか。伊丹十三が生きていたら、その後どんな作品を撮っていただろう・・・という話ではありません。映画の「質」の問題です。

ぼくごときが「映画の質」を語るのはおこがましいことだとは重々承知した上で述べていきます。
昨今、日本の実写映画(高視聴率ドラマの映画化などは除く)が話題になることは極めて少ないですし、関心も薄くなっていると思います。その理由はさまざま考えられるでしょうけど、やはり「質」の問題はあると思います。それは近年、グローバルで評価の高い韓国映画・ドラマを観れば一目瞭然です。ハリウッドで映画の基礎を学んだスタッフが多い韓国の作品は、企画、脚本、演出、演技、カメラワーク、編集、音響に至るまで、極めて高い技術によって制作されています。テレビドラマ作品も、映画と見紛う映像クオリティです。それらの技術は「いかに面白く観てもらうか」という方向に研ぎ澄まされ、一瞬たりともダレることのない、没入感と満足度の高い娯楽作品を多数生み出しています。

ぼくは、テレワークになって時間が出来たとき、なんの気なしに観た『愛の不時着』に大きな衝撃を受けました。それ以降3年間、50タイトル以上の韓国ドラマ・シリーズを、貪るように観続けてきました。観るドラマ観るドラマ、どれもこれも面白い。見始めたらやめられない。そのクオリティの高さに驚き、今やそれが映像作品の基準になってしまいました。
そうした目で観ると、残念ながら近年の日本の映画・ドラマは、かなり陳腐に映ります。準備に時間を掛けてなさそうだし、撮影は粘ってなさそうだし・・・そんなことばかりが目についてしまうのです。いや、良い俳優はたくさん居ると思います。現に、イーストウッドの映画に出たりすると、素晴らしい演技を見せてくれます。おそらく原因は、日本映画・ドラマ界の構造的問題、この数十年間サボって来たツケが現われている。そんなふうに感じるのです。

ところが、です。
久しぶりに伊丹映画を連続10本観ていると、そこには、現在の韓国ドラマにも劣らないクオリティが存在していました。
練られた脚本、俳優たちのポテンシャルを引き出す演出、隅々まで計算された画面作り、テンポの良い編集、劇伴へのこだわり。ひょっとすると韓国のスタッフは伊丹映画を研究しているのでは?とすら感じました。いや、実際に研究している人もいるかもしれません。それくらい、韓国ドラマのクオリティに染まったぼくの感性が、伊丹映画をすんなりと受け付けたのです。

と言っても、全作がそうだったわけではありません。『お葬式』などは、長く感じる場面がいくつかあり、決してテンポの良い娯楽作という感じではありませんでした。『タンポポ』では、独創的な構成ギミックによって、日本映画にありがちな停滞感を回避していましたが、何度も使える手法ではありません。そうした大仕掛けなギミックを使わず、素直にドラマを進めていく手法自体が洗練されたのが『マルサの女』です。「これ以上切るところがない」かのようなキビキビとしたテンポは、一度観始めたら、一気に最後まで観てしまいます。近年の韓国ドラマが、まさにそうしたテンポなのです。

それから役者。韓国ドラマは、とにかく役者が上手い。隅々の端役まで徹底的に上手い。上手い演技は、場面に深みを与えます。没入観が増します。感情移入を促します。だから韓国ドラマは、観終えたあとに、全ての登場人物に愛着が残ります。「優れた演出」が「優れた演技」を引き出す・・・それはまさに、伊丹映画の醍醐味であることに、あらためて気づいたのです。

「昔は良かった」というのは好きじゃないんですが、さすがに昭和の名優たちの芝居を見ていると、そう言わざるを得ません。
三国連太郎、小沢栄太郎、大友柳太郎、芦田伸介、小林桂樹、宝田明、中村伸郎、加藤嘉、小鹿番、絵沢萠子、あき竹城、三谷昇、名古屋章・・・文字面を見てるだけで目眩がしそうな豪華メンバーが、伊丹演出によって極めて魅力的に描かれています。
魅力的とは何か。
まず自然ということです。演技をしている、セリフを喋っていると思わせる隙が無い。登場人物そのものになり切っている。存在しているだけで、その人物の背景を匂わせる。微妙な表情に見入ってしまう。ギャグでもないのに思わず笑ってしまう。全身に悲壮感が漂う。・・・というような演技です。伊丹監督自身、役者についてこう述べています。

「映るものの最たるものは俳優たちの顔です。演技も去ることながら、僕は一見、全てを表現していて説明が要らないような顔を選びます」
(『伊丹十三の「タンポポ」撮影日記』)

そうした役者・演技は、まさに伊丹監督がこの世から去った90年代以降、なかなかお目にかかれなくなったように感じます。

これは全くの私見ではありますが、娯楽映画のお手本のような伊丹映画の系譜は、奇妙なことに、現代の韓国で息づいているというのが、ぼくの印象です。
いや、日本にもわずかには残っています。
『お葬式』で助監督を勤め、伊丹十三総指揮で製作された『スウィートホーム』を監督した黒沢清です。その後ゴタゴタがあって袂を分つことになりましたし、それだけをもって黒沢監督を伊丹映画の系譜と認定するのは乱暴かとは思いますが、強い接点があったことは事実です。そして近年は、その黒沢監督の弟子たちが、海外で高い評価を得ています。
(伊丹系とは全く言えない是枝裕和や河瀬直美なども、キャラっぽい演出は一切せず、自然な演技を引き出し、海外で高い評価を得ていますが、国内ではメジャーではありません)

冒頭で伊丹映画を「異質」と書きました。あえてそう書きました。しかし、ぼくの結論は「伊丹映画こそ本流だった」、もしくは「本流になるべきだった」です。今回再見するまで、ぼく自身も見誤っていました。伊丹映画のセンセーショナルな装いばかりに目が行ってのかもしれません。今あらためて、伊丹映画を吟味する必要性を感じています。

(了)

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