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ドラマ『人間の証明』論[総論]

■もう一つの『人間の証明』

1978年版ドラマ『人間の証明』(以下、本作)は、独自の設定とストーリー展開で、原作や映画版とはかなり印象の異なる作品に仕上がっている。
とは言え、原作とかけ離れているというわけではない。原作の基本プロットを大枠でキープしつつ、一旦原作を解体し、再構築する際に大胆な改変を施している。その改変が、ドラマならではの多くの見せ場を生み、原作のテーマをより鮮烈化している。

森村ミステリーには、〈複数のストーリーラインが並行して進行する〉という構成がしばしば見られる。ある章まで進むと、次の章から、それまでとは全く無関係な人物が唐突に登場し、別の物語が始まる。読み進めていくと、やがてそれは本流と合流し、互いのピースを埋めていく。(横溝正史は「交響楽的な小説」と評している)
『人間の証明』もそのスタイルで、主に4つのラインが並走する。

①ジョニー・ヘイワード刺殺事件・棟居刑事ライン
②郡陽平・八杉恭子の家族ライン
③妻の失踪を調べる小山田と新見ライン
④ニューヨーク市警ケン・シュフタン刑事の捜査ライン

物語が進むにつれて、これらのラインが交差、合流していく。
原作発表当時、そうした構成に対して「話が出来すぎている」という批判が一部から上がった。それに対して森村誠一氏は「この小説はロンド(輪舞)である」と応えている。最初に登場した人物が、最後の登場人物と繋がることによって物語の「輪」が形成される形式(ギミック)というわけだ。(とりわけ大きな「輪」は、〈棟居の父が助けた女性は八杉恭子であり、恭子を襲い、棟居父を殺したのはシュフタン刑事だった〉という図式だ)
早坂暁の脚本は、原作の交錯した相関図をさらに《拡大・追加》し、交差ポイントを大幅に増やしている。つまり早坂脚本は、あくまでも森村文学の特徴を踏襲した上で、物語を膨らませる改変を施した、と見ることが出来る。

本作は、①〜③はほぼ原作に沿っているが、④はニューヨーク市警からの捜査報告書という形で簡略化され、シュフタンの名前も報告書の署名で出て来るに留まっている。予算的な事情が大きいと推測するが、その分、国内の人間関係が《拡大・追加》され、原作以上に深彫りされることとなった。その結果、「もう一つの『人間の証明』」とも言えるドラマ版が完成した。

◾️早坂脚本における《拡大》と《追加》

本作が、原作から分身したオルタナティブとして屹立する最大のエンジンは、何と言っても早坂脚本である。原作の要素を徹底的に掘り下げ、数行しか出て来ない人物(陽子、棟居の父母など)を大きく引き伸ばして重要な役割を与え、行間から連想される人物(陽平の愛人、棟居の恋人など)にまで実像を与える。しかもそれらは、リアリティーを度外視したレベルで頻繁に交差する。
では、早坂が施した《拡大・追加》とは、どのようなものか?
まずは《拡大》から見ていこう。
④八杉恭子・郡陽平の家族拡大ライン
⑤郡陽子拡大ライン
⑥棟居・終戦後拡大ライン

④八杉恭子・郡陽平の家族拡大ライン
これは、原作ものの連続ドラマでは一般的な《拡大》である。郡家4人のキャラクターと関係性が、家庭内の対話を通して、きめ細かに描かれている。恭子が守ろうとする家族をより深彫りすることで犯行動機を強化し、同時に、そのために犠牲になったジョニーの哀れさを深めることにも寄与している。

ここで郡家のメンバーをおさらいしておこう。

八杉恭子(高峰三枝子)

●八杉恭子
原作では教育評論家だが、本作では国際的華道家に変更されていて、「国際生花文化協会」なる団体を運営している。なぜ華道家に変更したのかは分からないが、筑前琵琶の奏者・高峰筑風を父に持つ高峰を意識してのアイデアなのかもしれない。(生花実演の際に琵琶と尺八の演奏が付く)
教育評論家であるにもかかわらず、恭子本人の親子関係は崩壊している…と原作では描かれているわけだが、本作では「息子を溺愛する母/マザコンの息子」というふうに変更されている。原作の恭子は、自分の子どもを教育評論の道具に使うという冷酷非情な人物なのだが、本作の設定の方が「結局ジョニーを殺せなかった」という恭子の心理を受け入れやすいような気がする。棟居の「最後に人間であることは守ってくれました」というセリフへも繋がりやすい。

高峰は、映画『犬神家の一族』の犬神松子に続き、2度目の犯人役となる。松子は終始和装で、どっしり構えた人物だったのに対し、本作では生花のシーン以外はほぼ、高島屋とのタイアップによる洋装で、アメリカにもサッと飛んでいくアクティブな人物を好演している。

郡陽平(山村聰)

●郡陽平
ほぼ原作通り、保守民主党(原作では民友党)の国会議員で、次期総理大臣と目されているという設定。美波(みわ)という愛人が《追加》され、彼女が経営するクラブに、本作オリジナルの交差ラッシュが起きることになる。
陽平を演じる山村聰は、『日本のいちばん長い日』『激動の昭和史 軍閥』で米内海軍大臣、『ノストラダムスの大予言』やテレビ版『日本沈没』では総理大臣を演じており、「軍人上りの政治家」を演じるのに十分な貫禄。本作のスケール感をアップする素晴らしいキャスティングだ。

郡恭平(北公次)

●郡恭平
恭平もほぼ原作のイメージに近いが、一緒に逃避行する恋人・朝枝路子(高沢順子)とのコンビ描写が秀逸だ。苛立って路子を怒鳴りがちな恭平だが、路子にコントロールされる部分もある。そのやり取りはしばしばコミカルだが、親子関係に問題を抱えつつ大人になりきれない、2人の青春の迷走を描き出す。
北公次は、前年公開の映画『悪魔の手毬唄』でも、犯人の息子を演じていた。『手毬唄』では村の素朴な青年団員だったが、本作では「甘やかされて育った金持ちのドラ息子」というキャラクターをそつなく演じている。

郡陽子(岸本加世子)

●郡陽子
そして、何と言っても本作の家族描写の極め付けは、原作ではあまり描写の無い陽子が、大きくクローズアップされている点である。物語のかなりの部分が陽子のモノローグによって進行していくのだが、本作の脚本に施された数々の技巧の中でも〝発明〟とでも言いたくなる秀逸なオリジナル設定だ。
随所に出て来る日記を読むような小声のモノローグは、ジョニー刺殺事件以降、次々に目の前に現れる不可解な展開を、思春期の陽子が「大人の世界」を覗き込むように、その心境をメランコリックに呟いていく。そして最後は「大人の世界」の深い闇にまで到達する。(陽子モノローグのヒントになったのではないか?と推測される原作の場面がある。恭平が仕掛けた盗聴機によって聴いてしまった両親の会話に、陽子が不信を抱く場面だ)
ほとんど《追加》と言っていいほどの《拡大》なので、④から派生した独立ラインとしてカウントしておく。

⑤郡陽子拡大ライン
このラインは、「多摩川河川敷で会うオカリナさん」としての棟居と、物語冒頭から交差している。互いの素性も名前も知らない知人という設定で、これもラストに繋がる大きなオリジナル設定だ。

棟居(林隆三)と陽子(岸本加世子)

さらに、ジョニーが息絶えるエレベーターに陽子が乗り合わせているという、大胆な交差も施されている。陽子を当事者にすることで、その存在感と、モノローグが言及する幅を大きく広げている。よくもまあ、こんな凄い改変を思いついたものだ。
陽子を演じた岸本加世子は、前年にドラマ『ムー』でデビューし、本作が2本目の出演作となる。配役のオーディション用写真では不採用かと思われたが、岸本本人と対面した恩地監督がその場のフィーリングで即決したという。さすが名監督、大正解である。モノローグが醸し出す気だるい雰囲気もさることながら、もの思いにふける表情の美しさにも注目して欲しい。

⑥棟居・終戦後ライン
棟居弘一良の極度に屈折した性格を形成した終戦後のエピソード(主に父母に関する記憶の断片)が、オープニングや劇中で挿話的に描かれる。これもほとんど《追加》と言ってもいいくらいなのだが、棟居の心理を深くえぐる描写という意味で《拡大》としておこう。
このラインには、物語全体の根底に潜む時代背景を、視聴者に強く印象付ける機能もある。

次に《追加》を見てみよう。
⑦棟居の恋人・立花典子ライン
⑧謎の男・ダン安川ライン

立花典子もダン安川も、完全なオリジナルだ。
典子は、屈折し過ぎているがゆえに強烈に孤独感の漂う棟居に、寄り添って優しく見つめる人物だ。終盤には、棟居を捨てた母親との再会をセッティングする大仕事が待っている。

立花典子(多岐川裕美)

ダン安川は、主に郡・八杉夫妻の過去の闇を強調する人物として機能しているが、日本人ともアメリカ人ともつかない、ねずみ男のようなキャラクターは、戦後の日米関係を皮肉っているようにも見える。戸浦六宏がズバリはまり役。

ダン安川(戸浦六宏)

主だった《拡大・追加》は以上であるが、脚本に仕組まれた技巧は、まだまだこんなものではない。残りは各話解説で触れるとして、ここは論を先に進めよう。

◾️音楽とエンディング

広瀬量平による劇伴もまた、本作に独特の印象を与えている。哀しげで、どことなく郷愁を喚起するメロディが、主要人物の多くが何かに囚われ、引き摺っているドラマの中で、繰り返し流れる。さらにメロディは時空間を超え、終戦直後の焼け跡や、ニューヨークのスラム街でも流れる。それらを一つのメロディで繋げることで、各人の個人的な事情に留まらず、人間そのものの哀しさが響いてくる。

エンディングのテーマ曲『さわがしい楽園』は、フォークシンガー及川恒平の作詞、『ルビーの指輪』など多くのアーティストに楽曲を提供している井上鑑による作曲・編曲を、シンガーソングライターのりりぃが歌う。映画版の音楽は、「角川映画第二弾!」「本格ニューヨークロケ敢行!」というスケール感に相応しい大野雄二のダイナミックな楽曲が作品を彩った。西條八十の詩を角川春樹氏が英訳したというテーマ曲も作品を盛り上げた。一方で本作は、そうした劇場公開の余韻はお構いなしに、テーマ曲でも独自のカラーを打ち出した。各話のラストカットが静かに終わると、その静寂を破るように始まるイントロが実にカッコいい。終戦直後の記録写真と、豊かになった現代の光景が交互に映し出される映像とのマッチングも絶妙である。
■『人間の証明』エンディング動画

■総論まとめ

『人間の証明』は、タイトルが示すように、「人間であることの証明」の物語である。
その物語の発端には、戦争・戦後という背景があり、そこで起きた出来事が火種としてくすぶり続け、20年以上経過した現代に、いくつもの悲劇となって発露する。
早坂暁の脚本と、恩地日出夫を始めとする演出陣は、そうした原作を大胆に改造することで、全13話のドラマとして再構築した。特に中盤以降は、オリジナルの展開がどんどん増えていく。しかし、原作の愛読者でもある私は、「違う物語」を観ているという感覚にはならなかった。改変されたほとんどの箇所が、原作で暗に示されている部分・行間から読み取れる部分を掘り下げて視覚化するという、明確な方法論に沿っているからではないだろうか。特に八杉恭子、棟居弘一良らの心の闇を形成した終戦直後の《拡大・追加》エピソードの数々は、その時代を知らない私にも生々しく突き刺さり、『人間の証明』という物語への感受性を引き出してくれた。そして、ロンド形式で構成された原作は、ラストで悲劇の輪が閉じて終わるが、本作は人間への信頼回復を明示し、未来へ開かれたイメージで幕を閉じる。
連続ドラマという形式と映像表現の力を最大限に駆使して再構築された本作は、そうして「もう一つの『人間の証明』」として完結した。


…ということで、次回からは各話を細かく見ていきます。


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