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伊丹十三映画4Kを観る⑨ 『マルタイの女』はコメディなのか?

マルタイとは警護対象者の略称です。
つまり今回の〈女〉は、これまでの問題解決型の女性ヒーローではなく、警護を受ける側です。ということは、情報映画としての主軸は、立花(西村雅彦)と近松(村田雄浩)にあることになります。でも、この映画の主人公は、あくまでビワコ(宮本信子)です。『マルタイの女』ですから。
まずそこに、これまでの〈女シリーズ〉との違いがあるとともに、この映画がもう一つ弾けなかった理由のひとつがあるように思います。
つまり、「これは何をテーマにした映画なのか?」ということです。

また、警護がモチーフということは、主人公の身の回りに事件が起きない、もしくは起きにくい宿命にあります。『すずめの戸締り』が、災厄を未然に防ぐために扉を締めて回るストーリーであるために、映画としての起伏も封印して回ることなっていたのと似ています。
もちろん、災厄や事件が起きないのは良いことです。であれば、それに代わる映画的な展開が欲しいところです。それもあって、警護対象者のビワコを、日常も華やかに描けそうな芸能人という設定にしたのかもしれません。
いや、正確には、警護中にひとつだけ事件が起きます。ビワコの愛犬が惨殺されるエピソードです。しかしその場面、伊丹映画らしからぬ不自然さに満ちています。
電気会社の作業員を2名、ビワコのマンション前で襲撃して拘束し、作業着を奪ってなりすまし、ビワコ宅へ堂々と侵入するわけですが、白昼堂々、成人男性2人をロープで縛る犯行は、あまりにもリスクが高すぎます。
そして、ビワコ宅に侵入した作業員は、犬の首を斬り、冷蔵庫に収納するのですが、下手人の着衣には返り血が全く付着していません。また、お手伝いさんが冷蔵庫を開けるまで気づかなかったということは、付近に血痕が無かったということでしょう。けっこう不自然です。
ガチガチに刑事が張り付いてるビワコを襲えないため、周辺のものを傷付けて脅迫するというアイディアだと思いますが、以上のような詰めの甘さから、脚本の段階であまり上手くいっていないような気がします。

犯人側は、『マルサの女2』に続いて、カルト的な宗教団体という設定です。今回は、オウム真理教事件の後ですし、誰しもがそれを連想したでしょう。冒頭、弁護士夫婦が殺されることも、実際の事件に似ています。ただこれは、犯行グループがカルト宗教だったという「設定」に留まり、カルトやオウム事件についてのテーマ的な深掘りはありません。言ってみれば、反社会勢力であれば、何でも成立するわけです。強いて言えば、伊丹監督は宗教問題に関心があったようにも見受けられますし、オウム事件の記憶がまだ生々しい時期ということもあり、選んだということなのかもしれません。
また、高橋和也演じる実行犯の信者は、名古屋章の昭和風人情派刑事の泣き落としによって落ちますが、マインドコントロールがその程度で解除されるとは思えません。
いずれにせよ、犯人側の描き方が全体的に中途半端になっている感は否めません。

そして何より、結局この映画が何を描きたかったのかが、どうもぼくには分からないのです。『マルサの女』のような、いろいろな手口の面白さがあるわけでもなく、マルタイ(ビワコ)の動き自体も、それほど起伏に富んではいません。最後にビワコが「証言台に立ちます!」と凛々しく裁判所に向かっていきますが、「勇気を持って目撃証言をしよう」がテーマとも思えません。

以上のように、いつもの伊丹流が軽快に駆動している感じが、全体的にしないのです。
『スーパーの女』は、基本プロットは単純でした。監督自身が「大人のお伽話」と称する悪の商売敵を倒す物語に、取り立ててテーマがあるわけではありません。しかし、『マルサの女』のような情報映画としてのディテールがふんだんに出て来ますし、伊丹監督が公開前からPRしていた「スーパーを選ぶときの参考にしてください」というコンセプトも、風変わりですが、伊丹監督らしいテーマです。コメディ映画としても、卒ない仕上がりだったと思います。
『マルタイの女』も、例えば、もっと警護側と犯人側の攻防戦になっているとか、犯人側が警護を突破するためにあの手この手を使うとか、伊丹監督であれば、そんなスラップスティック風のクライム・コメディなんかも作れたのではないかと思います。
後半、ビワコ主演の舞台のシーンがあります。番兵に扮した立花が、甲冑衣装のまま飛び出し、小道具の槍で犯人と格闘しますが、これなども、全体がコメディ的なテイストに統一されていないために、とても浮いた感じがします。
実際、江守徹の二本松弁護士の圧倒的に変なバーコード頭などを見ると、コメディをやろうとしてた気配もなきにしもあらずです。当初、共同脚本として三谷幸喜を招いたことも、コメディを意識していたと推測出来なくもありません。

・・・いや、待ってください。
いろいろ書いているうちに、ガチにコメディとして作られている可能性もよぎってきました。
よく思い出してみると、セリフや挙動の節々に、くすぐりのような小技が散りばめられてはいます。ぎこちないリアクションの立花、隙があればちょっとウザい蘊蓄(うんちく)を挟んでくる近松、トラブルメーカーっぽいキャラクターのビワコなど、リアリズムを基調としたこれまでの伊丹演出とは、少し違うような気がします。ファンタジックな装いの『あげまん』ですら、基本的にはリアリズムを守った上でのデフォルメでした。それに比べて立花と近松などは、少しも刑事らしく描こうとしていない。ビワコも、いくら芸能人とは言え、どこか現実離れしています。
しかも、明確にコメディを狙った『スーパーの女』の次の作品です。監督が2作続けて同系の作品を撮った例は、わりと多くあります。ただ、最終的に『マルタイの女』を新手のコメディであると言い切れないのは、もう一つ笑えないからです。
でも、笑いにも好みがあります。『マルタイ』で大笑いしたという人がたくさんいるかもしれません。事実、ぼくの近辺には、伊丹映画のベストワンに『マルタイの女』を挙げる人がまあまあいます。
この辺りについては、いろいろな方のご意見を伺って観たいところです。

・・・ということで、さんざん難癖を付けしまいましたが、ぼくも『マルタイの女』が嫌いなわけではありません。観始めたら観てしまう、大好きな伊丹流娯楽のひとつです。
今回、4K版放映の機会に10作品全てを再見しましたが、製作から長い年月が経過しているにも関わらず、公開当時とほとんど変わらない鮮度で観れた作品は、『タンポポ』『マルサの女』『ミンボーの女』『大病人』『スーパーの女』と、半数に上りました。これは、80〜90年代の多くの映画が中途半端に古くなっていると感じるぼくの感覚からすると、ズバ抜けて優秀な数です。
『マルサの女』の項では、ややアクロバティックに近年の韓国ドラマとの比較を試みましたが、それも含めて伊丹作品は、未来への射程を持った映画であったと思います。
メイキングや映画宣伝のためのテレビ出演での伊丹監督をあらためて見てみると、実に楽しそうな笑顔に溢れています。今の時代、あんなに楽しそうに映画と戯れている作家がどれだけいるでしょうか。ますます混沌とする情勢の中で、時代の論点を見つける鋭い眼と、それを包む周到な人間観察と笑いで楽しませてくれる伊丹流映画のような日本映画が、ふたたびスクリーンに現われること願って、このシリーズを終わりにしたいと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

(了)

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