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伊丹十三映画4Kを観る① 『あげまん』はマルサ3?〜伊丹十三が切り取ったバブルの時代〜

なかなかオンエアの機会がない伊丹十三監督作品が、日本映画専門チャンネルで4K版が放映されています。まず皮切りに全作一気放映があり、久しぶりに10作品を再見したので、所感などを述べていこうと思います。

実は「30年以上経って、さすがに劣化してるのでは…?」という不安を持ちながら観たのですが、なんのなんの、初見のときの鮮度がそれなりに保たれていて、いろいろ思うところがありました。
ということで、まずは『あげまん』から。

『あげまん』の制作発表があったとき、現代社会をリアルに切り抜いた『マルサの女』2作に続く作品としては、「芸者の話?!」と、意外な題材に違和感すら感じたものです。
『マルサの女』1&2はバブル時代を半歩先取りした内容でしたから、むしろバブル絶頂期に当たる1990年(バブル崩壊は翌年)に芸者というファンタジックなモチーフというのはどういうことなのか? その後も時代背景や興行収入に敏感だった伊丹監督が、それらを考慮せずに企画したとはとうてい思えません。
今回の4K放映では、その伊丹監督の意図を探ることに留意して鑑賞したのです。

結果、ぼくなりの結論に至りました。
これは『マルサの女3』だったのではなか、と。
どういうことか?
それはマルサ・シリーズを順番に追っていくと分かります。
まず第1作『マルサの女』は、板倉亮子の税務署時代から始まります。そこでは、個人商店やパチンコ店など、みなとまち税務署管内の市井の法人を中心に話が展開し、国税局査察部に栄転した後、最終的にはラブホテルを経営する権藤商事の脱税を崩すところまでいきます。
続く『マルサの女2』では、さらに巨大な脱税者に切り込みます。折からの不動産高騰・再開発ブームを背景に、宗教法人を装う地上げ屋・鬼沢鉄平(三国連太郎)をマークします。悪辣な地上げ攻勢では、実働部隊のチンピラたちは、いつでも始末出来る道具として使い捨てられていきますが、その元締めである鬼沢ですら切り捨てるような、さらなる悪が存在します。最終的に莫大な利益を得る政治家・銀行・大手企業などです。鬼沢の巨額脱税を暴いたものの、それらには一切手を出せない板倉亮子が、悔しさと怒りに満ちたまま物語が終わります。バッドエンドです。

痛快娯楽映画という側面を強く持つ伊丹映画が、極めて後味の悪いバッドエンドで終わる。もしかすると、さらなる続編で、亮子のリベンジがあるのでは?・・・と期待したいところですが、そこで発表された次回作は『あげまん』でした。

しかし、です。
今回、あらためて観てみると、『あげまん』は『マルサの女3』だったんじゃないか?と思ったわけです。
『2』のエンディングで高笑いしていた政治家・銀行・大企業という連中は、よく考えてみれば、最早国税局ではなく、検察レベルの案件でしょう。いくら映画とは言え、マルサの一職員が太刀打ち出来る相手ではありません。

一方、『あげまん』の登場人物を見ると、まさに『2』で高笑いしていた連中がぞろぞろと出てくるわけです。しかも、映像のトーンはマルサ2作とは違えど、同じみなとまちが舞台です。
それらバブル経済で色と欲にレバレッジが掛かった俗物たちが、芸者・ナヨコを基軸にして、大曼荼羅を展開します。

『マルサの女』は、伊丹監督が娯楽映画の手本としたアメリカ映画のヒロイズムの原点のひとつである保安官のような存在の板倉亮子が、脱税を取り締まるという正義をモチーフにした物語でした。
『マルサの女2』では、さらに巨大な悪を相手にするため、すでに亮子ひとりの活躍だけに頼るのは不可能で、チーム戦の様相を呈しています。
そして、もし『マルサの女3』があり得たなら、『2』で成敗出来なかった、さらなる悪がターゲットになったはずです。しかし、先程も述べたように、それらは査察が取り締まる範疇を超えています。板倉亮子を検察に転職させるわけにもいきませんし、仮に『ケンサツの女』にしたとしても、最初からチーム戦となり、亮子をヒロイックな主人公に設定することは難しいでしょう。
そこで、見た目の世界観としては極端にファンタジックにシフトした芸者物語に見せかけて、『2』のラストで描き残したラスボスたちを、露悪的に描いたのが『あげまん』だったのではないでしょうか。

また、これは完全に推測ですが、政治家などの巨悪を描くことについて、日本映画そのものがあまり得意ではない、という背景もあるような気がしています。
もちろん、山本薩夫の『金環蝕』、野村芳太郎の『迷走地図』、森谷司郎の『小説・吉田学校』など、そうした映画がいくつか存在していることは承知しています。それらの作品的評価はさておき、2023年現在までの日本映画の系譜を俯瞰してみても、上記作品以降、そうした題材の映画が極端に見当たらないのは事実でしょう。80年代以後の日本映画は、そうしたリアルな社会派がどんどん影を潜めた反面、リアルとは対極のアニメーション作品が台頭してきました。『半沢直樹』のようなテレビ作品もありますが、演出作法としては完全に時代劇で、周到にリアルさを避けているようにも見えます。

『あげまん』も、芸者という、多くの観客にとっては非現実的な設定であるばかりか、無声映画のような字幕が挿入されるギミックが使われ、「お話」感が強調されています。おまけにラストシーンは、監督の実父であり、戦前の名監督である伊丹万作の傑作『赤西蠣太』のラストシーン(向かい合う男女にワーグナーの「結婚行進曲」を被せる)を、ほぼそのまま引用しています。
それらの技巧は、この作品が「映画というファンタジーである」ということを最大限に強調しているようにも見えます。
制作時には誰もが予想していなかったバブル崩壊から逆算すると、「バブル熱は一瞬の夢物語であった」という拡大解釈も出来るかもしれません。伊丹監督が崩壊を予見していたとまでは言いませんが、金と欲にまみれていたあの時代の空気を、伊丹流の表現であらわしたのが『あげまん』だったのかもしれません。
『あげまん』には「下品すぎる」との評もありますが、それはむしろ言い得て妙で、伊丹監督には、あの当時の日本人全体が、バブルに踊る下品な存在に映っていたのかもしれません。

(了)

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