見出し画像

伊丹十三映画4Kを観る⑧ 『スーパーの女』〜女性上位のソフィスティケイテッド・コメディ〜

伊丹映画最大の方向転換を図った『静かな生活』は、あろうことか『ミンボーの女』の10分の1という興行収入となりました。順番からすると次は『静かな生活』なのですが、ぼくの手に余る作品であるため、申し訳ありませんが、今回はパスさせていただきます。

ということで『スーパーの女』。
案の定というか、やはり〈女シリーズ〉は15億を叩き出しました。
ただし今回は、ヤンキー・ヤクザ嗜好層を呼び寄せた感のある『ミンボーの女』とは客層が入れ替わりました。伊丹監督はインタビューで、「主婦層がターゲットなので、平日の集客に強かったこともヒットの一因」と分析、「おばさんがスクリーンに向かって『そうだよ』『当たり前だよ』と喋りながら観ている。今回は今までとは違う手応え。男性客もだんだん増えている」と語っています。(「スタジオパークからこんにちは」1996.6.19)
今回の脚本は、ダメなスーパーの事例、スーパーの不正手口などが散りばめられ、原点である『マルサの女』に近い感じもします。しかし今回の「女」は、国税局の肩書きも、弁護士の資格も無い、どこにでもいる普通のおばちゃん。スーパーのプロでもコンサルでもない花子が、たまたま同級生のスーパー専務に再会したのがきっかけで、消費者感覚を頼りに店舗改革をしていくことになる。監督はこれを「大人のお伽話」と称しています。だから女の名前は「花子」、相棒となるスーパーの専務は「五郎」。敵対するスーパーの店名なんか「安売り大魔王」ですよ。まるで桃太郎の鬼退治みたいな建て付けです(笑)。
でも、その振り切りが功を奏して、『スーパーの女』は、伊丹映画の中でもとびきり軽快なコメディとして完成しました。

スーパーマーケットのユーザーである主婦層を強く意識してか、メインタイトルも、いつものキリッとした黒バック+極太ゴシックではなく、まるでホストクラブの看板のようなピンクのキラリンデザインになっています。
そしてこれは大切なことですが、伊丹映画で唯一、セックス・シーンが出てきません。この映画は、舞台がほぼスーパーの空間で、登場人物のバリエーションも限られていますから、男女の関係になる可能性があるのは、花子と五郎の組み合わせしかありません。
しかし、もうお分かりでしょう、例えばお互いに独り身だからといって、専務と店長が肉体関係になるなんて、女性の観客が許すわけがありません。そこは監督もわきまえていて、伊丹映画のトレードマークである濡れ場を封印したのでしょう。しかも、肉体関係になりそうになったけど、花子がその気になれず何事もなく終わったことを、わざわざ描いています。何も描かないと、逆に勘ぐられてしまうと思ったのでしょうか。それとも、本当は描きたい気持ちがあり、漏れ出てしまったのでしょうか(笑)。

そして、これもターゲット層を意識してか、男は子どもっぽくマザコンであり、女の方がリアリストで判断力もある、という伊丹映画に流れる人間観が、いつもよりさらに強調されています。
結果、スーパーの女・井上花子は、完全無欠のただの庶民であり、聡明で観察眼に優れ、性的アピールのおよそ感じられない髪型と服装、というキャラクターに造形されています。
対する五郎は、自分の店の欠点にも気づかず、これといった経営戦略もない。藁をつかむように花子の助けにすがる。金田龍之介演じる兄も、大魔王の勢力拡大にジタバタするだけで、全く戦意が感じられません。
バックヤードも同様です。女性パートさんたちは、不正行為を嫌悪しており、花子が立ち上がったときも、揃って味方に付く。一方、柳沢慎吾、伊集院光の調理師たちは、空威張りの親方たちに完全にスポイルされています。小堺一機の販促部は、ちょっとチェックすれば気づきそうな特売価格の誤植をやらかして大騒ぎに。唯一、不器用だけど研究熱心な青果スタッフを、津久井啓太が好演しています。
という具合に、スーパー正直屋の店内は、完全に女性上位の社会となっています。精肉や鮮魚のチーフが権力を行使しているのは、単に威圧的に振る舞っているだけで、物語後半には敗れて退場していきます。

そこまで鮮やかに色分けされているわけですから、安売り大魔王の面々も、かなり分かりやすくデフォルメされています。伊東四朗は伊丹映画の悪役専門ですから定番として、渡辺正行とヨネスケというのはかなりナイスなキャスティングです。もうとにかく、見るからに感じが悪い(笑)。
店内の照明も少し暗くしていると思います。さらには、大魔王が大根を持っているイラストのポップがあちこちに吊るされているのですが、これだけ分かりやすいのに、なぜ客は悪質スーパーと気づかないのか?!と思うくらいの、徹底した悪者演出です。

その両者の間を行き来し、正直屋の従業員をまるごと引き抜こうとする矢野宣の嫌な奴ぶりも素晴らしい。矢野宣は、『マルサの女2』では宗教法人所轄庁の職員、『あげまん』では腹黒い銀行マン、『ミンボーの女』では裁判所の執行官と、どんな役をあてられてもそれらしく演じていまう、実にハイスペックなバイプレイヤーさんです。

正直屋におにぎりを納品している食品会社の社長に岡本信人というのも面白い。本物のたらこで作ったおにぎりが認められるシーンでは、あき竹城ら大勢の女性陣に取り囲まれてベソをかき、これまた「男は子どもである」という監督の人間観をそのまま反映した場面になっています。ひょっとすると、当時の主婦層の観客には、かなり痛快に映ったかもしれません。

バックヤードの親方たちも、勧善懲悪の物語に奥行きを与える名演、怪演ぶりを発揮しています。
六平直政の精肉部チーフの極悪ぶりなんかは、ほとんどマンガです。でも、やはり上手い人なんですね。デフォルメされたキャラクターなのに、妙に生々しいリアル感もあり、高級肉を誤魔化して勝手に横流しするくだりは、異様な緊迫感が充満しています。
一方、やはり花子に抵抗する高橋長英の鮮魚部チーフは、頑固な職人気質でありながら、花子の改革主旨や、大魔王の胡散臭さに気づいていき、包丁さばきの置き土産を置いて去っていく。その変化していく高橋の心理描写の巧みさは、この作品の見どころのひとつです。

そして伊丹流キャスティングは、物語終盤に最後のサプライズを用意しています。
佐藤蛾次郎のデコトラ運転手です。
初見のとき、あまりの不意打ちに、思わずのけ反りました(笑)。
公式プロフィールによると、蛾次郎の身長は155センチとなっていますが、大型車輌のハンドルをあそこまで巧みに裁けるのか、見るからに疑問です。そこが面白い。
伊丹監督はカーチェイスにこだわり続けましたが、この蛾次郎チェイスが最も良く撮れていると思います。

店の常連客に柴田理恵、田嶋陽子というキャスティングも、監督が求める「物語のある顔」で選ばれた主婦たちでしょうか。田嶋陽子は、イデオロギー的に好まない人もいるかもしれませんが、伊丹映画にイデオロギーは関係ありません。田嶋陽子よりも適した本職俳優が見つからなかったということでしょう。その点、バックヤードのパートさんに、さり気なく混ざっている絵沢萠子はさすがです。『マルサの女』で「国税局は女の裸を見に来たのかよ!」と全裸で叫んでいた、あの人です。惜しくも、先月亡くなられました。日本映画界はまたひとり、得難い名優を失いました。

・・・ということで、『スーパーの女』は、伊丹映画の中で最も気楽に楽しめる作品となりました。『ミンボーの女』同様、ウェルメイドな隙のない仕上がりになっています。今回は特に、脚本の完成度が高かったように思います。コメディ風のライトな作風にしたのも成功要因でしょう。
いや、日本映画で洗練されたコメディの成功例は極めて少ないですから、その点も加味して、もっと再評価されてもいいような、伊丹流情報系娯楽映画の佳作です。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?