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伊丹十三映画4Kを観る⑤ 『マルサの女2』〜繊細と大胆の意欲作〜

『マルサの女2』は、伊丹映画のラインナップで唯一の続編です。①のテキストで「『あげまん』はマルサ3ではないか?」と推論しましたが、仮にそういう側面があったとしても、設定が全く違うので続編とは言えません。〈女シリーズ〉というフレームで見ても、『ミンボーの女』などは、井上まひるの雰囲気や大地康雄とのコンビなどが酷似していますが、いわゆる続編ではありません。全く同じ設定の真性続編は『マルサの女2』だけです。

続編は、主人公の設定や世界観があらかた決まっているわけですから、監督の構想や演出をさらに拡大していくことが可能だったでしょう。
そしてその通り、今回の敵はさらに巨大な権力者にグレードアップします。前回は名前だけの登場だった「漆原先生」をはじめ、銀行や建設会社などのラスボス級のおっさんたちが、タイトル前から勢揃いして蟹を貪っています。
その前のファースト・シーンは、そうした連中が使い捨てたであろう何者かの腐乱死体です。観客の心の準備が出来てない出だしから、いきなりグロテスクな映像を突きつけ、それらを天空で操るラスボスらをも見せつけるという、あらかじめ映画の骨格を明かす大胆な脚本構成です。
ラストは、この冒頭に登場した連中の高笑いで終わるわけですから、2時間以上にわたってさまざまな事件や出来事が起きますが、結局は無傷の権力者たちの高笑いに始まって高笑いで円を閉じる、なんとも息苦しい物語ではあります。

『マルサの女2』は、予告編にある《これは私たちの美しい国日本の悪の自画像だ》というコピーの通り、ありとあらゆる人間たちのドロドロな欲望を、次から次へと露悪的なまでに見せつけていきます。そしてそれは、巨大な利益を得ている者たちだけに留まりません。写真週刊誌のカメラマン・清原、大学教授の米田といった地上げの被害者側も、結局は欲のために鬼沢の餌食になってしまいます。そうした描写から逃れているのは、国税局サイドのメンバーを除くと、清原の妻、食堂の夫婦、元僧侶くらいで、これまた予告編がうたっているように、欲望の《絢爛たる大曼荼羅》の様相を呈しています。
鬼沢が言います。
「日本人はみんなゲスだ!!」
作者が悪漢のセリフを借りて本質を語るという表現方法がありますが、まさにそれではないでしょうか。

そうした物語に合わせて、映像のトーンもコントラストを強めたダークな画調になっています。特に影の効果が多用されており、鬼沢を取調べる部屋のシーリングファンなどは、本来あり得ない影をわざわざ創り上げたりしています。(『マルサの女2をマルサする』で解説されています)

地上げの描写も手加減無しです。凶暴なドーベルマンをマンションに持ち込んだり、工事機器で耐え難い騒音を起こしたり、果ては無人のトラックを商店に突っ込ませたり、見ている方もうんざりしてくるような悪辣な手口を、容赦なく描写していきます。
一般的にサスペンス映画では、やられる方を徹底して描くことで、悪を倒すときのカタルシスを大きくするという落差構成が用いられるわけですが、先にも述べたように、この物語にはカタルシスはほぼ無い、むしろ板倉亮子と悔しい気持ちを共有したまま終わります。

伊丹監督は『「タンポポ」撮影日記』で、ゴローが去っていくシーンにこんなコメントをしています。
《たんぽぽと結婚して落ち着けば良さそうなもんだが、それではウェスタンにならない。ゴローさんがここに住みつくことは、映画の掟が許さない》
これに倣って言えば、勧善懲悪やハッピーエンドは〈娯楽映画の掟〉と言えるかもしれません。
しかし当たり前のことですが、映画にはバッドエンドの物語もあり、歴史に残る名作傑作も多く存在します。
バッドエンドの物語はたいてい、テーマやメッセージがより強調されていて、その多くがシリアスな問題提起をはらんでいます。後味の悪い余韻をわざと残すことによって、映画を観終わったあとに、そのテーマについて観客に考えてもらう。『マルサの女2』は、まさにそういう映画です。
バブル絶頂期に差し掛かっていた1988年。数年後には夢と散る狂騒を、その渦中で指摘した映画はあまり多くありません。すぐに思いつくのは、この『マルサの女2』と、押井守監督の『機動警察パトレイバー the Movie』(1989年)くらいでしょうか。

ところで、釈然としない終わり方をする理由がもう一つ考えられます。続編を想定している場合です。その辺の推論については、『あげまん』の項で詳しく述べていますので、よろしければ併せてご覧ください。

・・・ということで『マルサの女2』は、娯楽映画の作法を破って押し寄せるバブル社会の暗部を生々しくえぐって見せた力作ですが、作品の完成度としては、ややとっ散らかった印象が否めません。続編ということで、前作よりさらにやりたいことを詰め込んだせいでしょうか、詰め込み過ぎたものの交通整理が今ひとつ乱雑なような気がします。宗教団体の描写も、どこか深みが足りません。細かいことを言えば、解せない場面もいくつかあります。例えば、鬼沢の隠し部屋のドアに鍵があるのに施錠していなかったり、きたろうのヤクザが国税局の書類倉庫まで迷わずにすいすい入っていったり、スナイパーが狙いやすい位置に都合よく取調室があったり、などです。教団施設の通路に鉄の壁が落ちて来るところなどは、ショッカーのアジトみたいで、ちょっとやり過ぎ感がありました。
反面、『タンポポ』あたりから洗練されてきた、伊丹演出ならではの楽しい趣向もたくさんあります。鬼沢の事務所の日の丸の額が何度も落ちるところ。ソープランド嬢の「(仕送りは)あんまりしてないの…笑」というセリフ。岡本麗演じるホステスのキャラクター。洞口依子の可憐さ。宗教の管轄職員が圧倒的に少ないことをワンカットで見せる手際の良い演出。中村竹弥と丹波哲郎の名優対決などは、わずかなシーンですがかなり見応えがあります。
そんなふうに、ややいびつなところのある映画ではありますが、繊細な伊丹演出に大胆さを加えた、伊丹監督の中では最も時代の空気を表現した意欲作であると言えるでしょう。

(了)

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