母のタンスを整理する

老人の域に達している母は、たった今に近いことほど、記憶が曖昧模糊だ。それにくらべて、遠い遠い昔のことは恐ろしく細かく鮮やかに覚えている。

母を車に乗せて、橋を渡る。
「この橋が出来たとき……」
母が語りはじめる。いつの昔やねんと思いつつ耳を傾ける。
「若いカップルが最初に渡った」
アベックという死語ではなく、カップルって言ったな、と感心する。

几帳面な母の整理ダンスが乱雑になっているのが気になっていた。
いつか、あれを整理しなければと考えていたから、一大決心をして始めた。
母が探しやすいように、季節ごと、ざっくりとしたアイテムごとに
仕分けたい。ところが、母が張り付いてきた。汚れなどがあって、
私が捨てることを推奨するものも、ごねごねとごねて捨てさせまいとする。

「お風呂に入ったら?」
母に提案する。わりあい、素直に応じる。母がお風呂に入っているあいだに
即効で、ゴミ袋に入れていく。洗ってごわごわになった布製のマスクや、大量の肩パット、黄ばんだ白っぽい服などなど。

お風呂から上がった母は、また手伝うような見張るような微妙なスタンスで
私のそばにいる。あとは、たたんで引き出しに納めるだけだから、たたんでもらう。しばらくすると、母はゴミ袋の存在に気づく。
「あれ、なにを捨てるん?」
「あれは、ほら……」
覚えてないほど、その場限りの出まかせで、ごまかす。
「タンスの中、からっぽになったろ」
と、しょぼんとする母。これは、まずいと思い、引き出しを開けて見せる。
「見て、どの引き出しもいっぱいのまんま。ほとんど捨ててないからね」
母は、いったん納得して、また、ゴミ袋を見て言った。
「でも。まだ、うち、死んでないのに」
こんどは、私がしょんぼりした。







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