たーたんべれー

映画「キャロル」タータンチェックの彼女たち

 テレーズ(ルーニー・マーラ)は、華奢でいかにも少女っぽいルックス。タータンチェックのベレー帽とかマフラー、コートなんかがよく似合ってて、雑誌オリーブ(残念なことになくなってしまったが)に出てきそうな、かわいらしさ。彼女(オードリー・ヘップバーンとウィノナ・ライダーを足したり引いたりしたような)は、デパートのおもちゃ売り場で、おもちゃを売っています。

 そのおもちゃ売り場に、娘のクリスマスプレゼントを選びにきたキャロル(ケイト・ブランシェット)。長身で痩身。鋭さのある美貌。きれいにセットされた金髪に小さな帽子、毛皮のコート、革手袋、物腰はエレガント。大人のアイテム満載です。キャロルが革手袋をおもちゃ売り場のカウンターに置いたとき、革製品ならではの、ちょっと重たい音がするんだけど、これは始まってしまうな、と勝手に思う。

 革手袋を置き忘れて、キャロルは帰宅。テレーズは手袋をキャロルに郵送することに。のちに、キャロルの夫に「余計なことを」と言わしめるくだりです。キャロルはお礼にと、テレーズをランチに誘う。こうして、毛糸玉から糸を引きだすように、するするとキャロルとテレーズの恋は始まっていく。テレーズの肩に手を置くキャロルの仕草に、体温を感じる。テレーズの男友だちが、テレーズの肩をぽんとたたく場面では、あくまでも軽やかなのに、キャロルがテレーズの両肩に手をのせるときは、どちらからともなく熱が伝わっていく感じがする。一方、テレーズはキャロルの写真を撮らずにはいられない。

 夫との離婚が前提だったキャロルにとって、テレーズとの出会いが不利に働き、娘の親権を夫に奪われそうになる。キャロルの夫は、寄りをもどしたいわけなんだけど、女が我慢の積み重ねの末に、本気の別れを切りだしたときには、もう完全に見切りをつけているということを彼はわかっていない。たまたま、そのタイミングで他の誰かが現れても、もともとの問題は夫とキャロルのあいだにあるはずなのに。

 娘に会えないことを憂いて旅にでるキャロルは、テレーズを誘う。テレーズは恋人(男性)を振り切って、キャロルと旅に出る。この旅でキャロルとテレーズは初めて深い関係に。赤いタータンチェックのガウンを着たキャロルが、しゅるんとガウンのひもを外します。ところが、キャロルの夫が人を使って、二人の現場を盗聴。キャロルはテレーズを残して、不本意ながらも夫との生活へ戻る。その後、キャロルとテレーズは……。

 1950年代という、今とは比べものにならないくらい自分の意志を通しにくかったであろう時代、同性愛は病気とされていたらしい。だけど、たいていの男女間の恋ごころだって、じゅうぶん病気だ。はたから見ても、わけわからんし、本人たちでさえ、はっと我に返るとわけわからんかったりするだろう。ほとんど妄想で妄動かもしれない、でも、誰にもうまく説明できないけれど自分にとって動かせないものが、相手の中にひとつでもあるとなると、病気のままで、よし、とするんだろう。

 「キャロル」は、映画「太陽がいっぱい」の原作者パトリシア・ハイスミスが、自身のことを題材にした小説の映画化ということだ。パトリシア・ハイスミスは、実際にデパートで勤めていたらしく、テレーズに自分を投影して書いた作品のようだ。子供の頃に、映画「太陽がいっぱい」をみて、アラン・ドロンのことを美しい男の原型みたいに刷り込まれた私は、リメイク版の映画「リプリー」をみたときの、これじゃない感はすごかった。アラン・ドロンが演じた主人公が、正統派な美形のジュード・ロウならともかく、ちょっとファニーなマット・デイモン。そして、同性愛色が強いものになっていた。しかも、パトリシア・ハイスミスの原作に近いのは「リプリー」と知り、もっと驚いた。いま思えば、「太陽がいっぱい」の制作時には、時代的にまだ、比喩的な表現しかできなかったのかもしれない。女性たちだけの気持ちを独占するには、この頃のアラン・ドロンは、あまりに美し過ぎる。

 ちなみに、「リプリー」にケイト・ブランシェットも令嬢役で出てたのですね。記憶にありませんでした。ついでにいうと、いまの「美男子でいることにはもう飽きたから、これでいいのだ」というふうに自然におじいさんになったアラン・ドロンも大好きだ。

    最後に「キャロル」に話をもどすと、キャロルの口紅は華やかな朱色の入った赤。テレーズの口紅はマットで可憐な赤なのでした。

 

 

 

 

 

 

  


 

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