日記 死体のやわらかさについて

『スタンド・バイ・ミー』を観た。なに,今さらかよ? うるさい! 今後わたしは死ぬまでこの言葉に付きまとわれるんだ。映画を観た,今さら,別れた,今さら,新しい趣味をはじめた,今さら,死んだ,今さら。ああ,死にたくない。世人のいう希死念慮は大半が嘘だ。あなたの本心はこう:
I just wish... that I could go some place... where nobody knows me. 俺はただどこか……誰も俺を知らない場所へ行きたいよ…… クリス,君はいくじなしじゃないよ。

しかしあなたはこう言って希死念慮を正当化するかもしれない。でも実際そんな場所はないんだから,死ぬより他に仕方ないじゃないか。なるほど。しかしおそらくあなたは目的−実現と欲求−沈静化の関係を混同している。あなたが文明崩壊後の星で食料に飢えているとしよう。腹が減ってたまらないが食い物はどこにもない。そこであなたは自分の腹をぶん殴るとなぜか一応食欲が収まることに気がつく──では,あなたは「腹部への打撃を欲していた」のか? もちろんそうではない。あなたは飯が食いたいのであり,それは飯を食うことによってしか実現されない。死と逃避の関係もこれと同じではないだろうか?(違うかもしれません。)

とはいえ仮に死にたいという言葉がおよそ嘘っぱちに過ぎないとしても,死ぬ以外どうにもならないという叫びには切実な真実があるし,実際死を望み実行する人も当然存在する。まったく過去はみな手遅れ,死ぬ以外どうにもならぬものばかり。ああ,早く死にたい。

映画は死の受容による通過儀礼イニシエーションと錆びついた米国的青春メリケンアドゥレセンスを混ぜ込んでホモソーシャルの種を植えた作品で,「スタンド・バイ・ミーはさすがに観ましたよ」と言う権利を得る以上の意義は感じなかった。死んだ兄との比較だの強権的な父の克服だの,少年同士の非性愛的な絆だの,そういうのはもう懲り懲りだよ。あんたら自分が十二の頃の話なんて本当に覚えてるのか? 精神分析の教科書を開くのはやめてくれ。苦手なんだ。

ああ,ちくしょう,でもわたしはこの映画が嫌いになれない! 成人式の二次会,酔っ払った知り合い(ちっとも仲良くない)が「ここでは力が全てなんだよ」と叫んでわたしをぶん殴った。わたしはそれを嗤ったけれども,彼の発言はここどころかわたしの人生の全体に当てはまっていた。ずっと力が全てだった。筋トレもランニングもあれもこれも全て醜いルサンチマンの産物だった。太るのが怖い。運痴を嗤われるのが怖い。老いるのが一番怖い! 貧乏を自認した貧乏人がよくて成金にしかなれないように(『銭ゲバ』を思い出してほしい),肉体を嗤われた者は肉体という空間の中でしか生きられない。わたしは肉体の貧乏人だった。肉の青春に焦がれていた。

ところで原作小説の題がThe Body死体なのは周知の事実だが,どんな死体だったかあなたは覚えているだろうか(さすがにスタンド・バイ・ミーは観ましたよね)。スタンド・バイ・ミー 死体 検索。そう,哀れブラワー少年は死体もないのに一人スタンド・バイ・ミーを決行して轢死体と化したのだった。しかし彼の死体はねじ切れてもひん曲がってもおらず,轢死のわりには原型をとどめたまま果てている。目ン玉が飛び出るわけでもなし,せいぜい顔色がややゾンビっぽいだけのこと。その顔色だって,月曜朝の埼京線でひしめき合うホモサピども(わたしのこと)とさして変わるところがない。

要するに,ブラワー少年の死体はまだ匿名化されていない。彼の肉はカチコチのままで,弁別可能な顔があって,「ご遺体は損傷が激しく……」と棺を隠す必要がない。もちろんこれは死体がドロドロだったら映画としてキモすぎるからだろうが,通過儀礼イニシエーションという主題が要請した事態でもあったろう。なぜ死体は少年だったのか。なぜ白骨死体ではいけなかったのか。ゴーディが兄の死を正面から見据えるためには,まず死を,むきだしの死を,自分にも当然訪れるものとして理解しなければならなかった。だから死体は歳の近い少年で,名前があって,顔があって,ほとんど生きているように見えなければならなかった。ゴーディは臨死体験の旅を通して兄の死を理解する──もちろんこの理解とは論理ではなく一種のガットフィーリングである。論理で十分なら三段論法をゴーディに教えればそれで済む。大前提:すべての猫は死ぬ。小前提:ゴーディは猫である。結論:ゴーディは死ぬ。これで済まないのは言うまでもない。

ああ,この固い,あまりに固い肉体solid bodyが,溶けて崩れ,露と流れてくれぬものか(河合訳)。死体はやがて腐乱し肉が流れ落ち,やわらかくとろけて顔と名前を失っていく。こんな具合に:

岡崎京子『リバーズ・エッジ』

『スタンド・バイ・ミー』が米国的青春なら,『リバーズ・エッジ』は九〇年代日本的青春ポモアドゥレセンスといったところだ(真に受けないでほしい)。「平坦な戦場」ではもはやスタンド・バイ・ミー的な通過儀礼イニシエーションは不可能になっている。わかりやすい成長はどこにもなく,ロールモデルたる──ついでに死ぬことで完成化されている──家族もいない。「行って帰ってくる」臨死体験の物語は成立せず,死体は勝手に河原へ流れついてくる。だって,どこへ行けっていうのさ。

宇野は『ゼロ想』で『リバーズ・エッジ』の死を「商品のようなものでしかない」と批判しているが,これは皮相の見解で,そもそも同作において死が河原の死体→野良猫の死体→田島カンナの死体と複数回登場することを無視している時点でやる気が感じられない。たしかに河原の死体はすっかり固有性を剥奪されており,彼女らの食卓に並ぶ出所不明の肉の切れ端と変わるところがない(もちろん「ミミズ肉」の都市伝説は彼女らが生産関係から切り離されているために生まれる)。これは近代化に伴う死の外部化と消費社会の加速に並行している,要するに死が商品化している,なんてのは読めばふつうに明らかではないか。

山田は「もっと早くみつけてれば ふくらんだりとかウジがわいたりとか見れたんだけど」と言うが,実際に彼らが作中でたどるのはこれと逆のプロセスだ。すなわちやわらかくとろけて匿名化された河原の死体から始まり,名付け育てた野良猫の死を経由して(まあ山田は猫の死を知らないが),形式的とはいえ恋人であった田島カンナの死にたどりつく。近くて重い死を一般化することで咀嚼可能にする『スタンド・バイ・ミー』とはまったく逆に,『リバーズ・エッジ』はむしろ陳腐化した死の固有性を取り戻していく物語というところか。

これで「やっぱり死って悲しいね。えーん」とか「生命いのちって尊いてぇてぇ……」とか言って終わるなら簡単なのだが,実際は特になにも起こらない。ただハルナが町を去って話は終わりだ。山田やこずえとの関係も,観音崎とのいくつものいざこざも,おそらくは単にどうでもよくなる。そう,どうでもいい! 問題は超克されるのではなく,ただ問題ごと捨て置かれる。これが現代ふうの通過儀礼。わかるわかる,そういうの俺も昔よく考えてたよ,若いねぇ〜。そして実際,ひとたび達成されさえすれば,この痴呆症はある意味最もすぐれた解決手段なのだろう(もう一度『銭ゲバ』を思い出してほしい)。

すでに同作の発表から30年ほど経ち,現代ではもはや陳腐であることじたいが陳腐化している。どうでもいいことじたいがどうでもよくなりつつある。こうしてそれを語ることも。

***

違う,違う。わたしはそんな話がしたいんじゃなかった。もともとスタンドバイミーもリバーズエッジもどうでもいいのだ。だって物語は,結局のところ商品だろう。わたしは商品でない死の話がしたいんだった。本当は,硬く顔のある死体とやわらかく名を失った死体のあいだに一瞬挟まれる生の幻想の話がしたかった。

猫 死後硬直」に「生き返る」がサジェストされるのをご存知だろうか? ハムレットの願いとは裏腹に,生き物は死ぬともっと硬くsolidなる(汚れsoiledはしないかもしれない)。しかし死後硬直は筋繊維の崩壊にともなってゆるやかに解け,死体はある境を過ぎるとテロンとやわらかくなる。これを解硬という。

腐敗と溶解への不可逆な変化の道すがら,解硬は時に夢を見せる。ひょっとしたらという夢を。木陰の石ころのごとく冷え固まった肉の塊がある時急に反発力を弱め,時には姿勢をいくばくか変えさえする。もちろんわたしは死が不可逆なことを知っている。瞳孔がふつりと散大する様子を知っている。けれどもわたしの理性が茶々を入れるより一瞬早く,なにか抗いがたい肉の感覚が全身を駆け巡り,また一瞬で去っていく。まったくくだらない。

それはわたしが七つのときにねだった猫だった。血統書付きのロシアンブルーだが値段はいささか安く,猫のくせに犬のような顔つきをしていた。老齢になってますます我儘が加速し,若いメス猫を追いかけ回して遊ぶろくでなしだった。後ろ足に糞をつけたままテーブルへ上がり(おそらく深部感覚の衰えから排泄が下手になっている),食事の皿を前足でカタカタと鳴らして飯をねだった。ずいぶん長く生きたが,先頃十八の春を迎えることなく死んだ。父は「長生きしたねえ」と言って眉を下げ,それを軽くなでた。わたしは父が先に死ぬべきだったと思った。

わたしはかつてそれをどう触ればどう反応が返ってくるか完璧に理解していた。そこには肉体の会話があった。かつてわたしの両手に宿っていた背骨の曲線と毛のしなやかさは,なでる手のひらに反発する肉の記憶は,もう映画や小説のようにしか取り出せない。わたしは記憶が可能性の中にのみ宿ることを初めて知った。しかし……


やめよう,やめよう。本当は思い出話でも書くつもりだった。でも文章は結局のところ,商品だろう。わたしは商品の話はしたくない。死は常に交換不可能だが,それを語った瞬間に交換の輪に飲み込まれてしまう。死 ブログ 泣ける 検索。上から三つも読めば十分だろう?

わたしは死んだもののことを考える。見舞いに行かぬまま死んだ祖父のことを考える。酒で死んだ友人のことを考える。自分が殺した人間のことを考える。わたしは逃げているばかりだ。大前提:すべてのは猫は死ぬ。小前提:ゴーディは猫である。結論:ゴーディは死ぬ。これで済まないのは言うまでもない。


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