日記 無意味な話と映画の話

ねえイライザ,今日はなんの日? 今日は閻魔参りの日です。仏教で1/16と7/16は閻魔参りと呼ばれ,この2日間だけは地獄の釜の蓋もゆるみ,鬼も亡者もゆったり休むとされます。へえ,完全年休2日制ってわけか。しかし本当にゆったり休むなんてできるのかね,地獄は終わらないというのに? だってたった1日休んだところで,次の日もその次の日も,半年間ずっと釜茹でが続くんだよ。いや,むしろその束の間の休息こそが,地獄を地獄たらしめているんじゃないかな? ご質問の意図がわかりかねます。失礼,君には難しすぎたね。今日の天気は? 雨です。OK。

安倍晋三が死んだ。少し後に選挙があった。自民党が勝った。若者に限れば国民民主党も健闘した。
わたしは骨の髄までアパシーに染まった典型的ノンポリなので,安倍晋三の功罪がどのように評価されるべきなのか知らない。誰かが自民党は頭の古いホモソ男性ばかりだと言う。誰かがむしろ安倍政権は中道左派とみなすのが世界の常識だと言う。誰かがヒラリー・クリントンの弔文はお世辞だと言い,誰かがいやUNウィメンの安倍評価はなにも間違っていないと言う。世界は複雑だ。わたしはなにも答えを持っていない,そのヒントすらも。いちいちリンクも張らない。お探しの方はよそへ行ってほしい。

自由,民主主義,基本的人権……それらはなぜ守られるべきものになったのだろう? これら概念の勝利を理由づける高次の理屈はあるのだろうか? それとも正しさというやつは,すでに(どういうわけか)勝利してしまったこれら概念のでしか保証されないのだろうか? わたしは『気楽に殺ろうよ』のことを考えている。パワーゲームの外を考えようとしている。

笹沢豊は『〈権利〉の選択』でケンリ概念をニーチェ的に読み解いた。福沢諭吉の「権利=利を得るための力」という翻訳がケンリ概念の本質を言い当てていると。それはかなりわたし好みだったが,しかしそれすらも一種の信仰のもとでしか成り立たない一つの解釈,聖典の註釈に過ぎない気がする。

これらはたぶん,今さら誰も取り合わない疑問だろう。哲学者には幼稚の,実用主義者には無駄の一言で切り捨てられるような。永井均は『〈権利〉の選択』あとがきで「この本はなんの役にも立たない」と言っていた(もちろんこれはいい意味だけれど)。みんなもっと真面目な話をしている。役に立つ議論をしている。わたしはたぶん死ぬまで不真面目なままだ。

「投票 何も変わらない」で検索すると,真面目な人による様々な回答が出てくる。それらはおおむね詐術で,たいてい「の投票では何も変わらない」を「私達の投票では……」にすり替えているだけなのだけれど,しかしそれこそが真面目な戦術なのだろう。彼らは自分と他人の区別がついていない。ついていないからこそ,あるいはついていないふりを真面目にできるからこそ,議会制民主主義(どころか人間社会)がそれなりに成立している。これは本当にすごいことだ。かくあるべし!

『神々の山嶺いただき』の映画版を観た。誇張のない作品だった。

阿部寛は出ない

94分しかない都合上,展開の大部分は端折られている(7年かけてこれだから相当大変だったのだろう)。といって決して不自然さはなく,翻案としてかなり理想的な部類に入る作品だと思う。深町や岸涼子の顔が過剰にジャパナイズされているのはご愛嬌。

わたしもかつてこういう世界に憧れがあった。岸がアブミで足を滑らせ,ビレイ中にロープを岩角に引っかけてしまうあの感じ,羽生がロープを腕の長さでさばくあの感じ,深町がアイゼンの雪をはたいて落とすあの感じ……地に足のついた描写を細かく積み重ねて,本作は成立している。そしてその大部分は,あの流麗な画風に要請されたものでもあったろう。

映画には誇張がない。だから彼らは登攀中にほとんど言葉を発さないし,深町を背負う羽生の肉体から機関車のような蒸気がほとばしることもない。鬼スラの登攀はするりと終わり,宙吊りの岸を(倍力システムなしに!)引き上げるときも画面と劇伴はいたって冷静,そしてプルージックを歯で引き上げて数十メートルを登り返すあのシーンでさえ……。

これは本当にヤバいことをやっている

繰り返すが,この映画はかなりよく出来ている。しかしこれは谷口ジロー的ではなく,そしてそうでないことによって独自の価値をもっている。

谷口ジロー版『神々の山嶺』はコントラストや効果線がギンギンにきいたコマばかりだ。そもそも彼は初期につげ義春の影響を受けまくった短編を描いているし,かつては『事件屋家業』などハードボイルドものにかなり注力していた。『歩くひと』ですら決して誇張と無縁ではない。

これなどは一種の誇張だろう。谷口ジローは自然主義者ではない。むしろ誇張にこそ彼の作家性があり,そしてその誇張を廃したところに映画の独自性があった。内言をひたすらにカットし,「おれを撮れ おれが逃げ出さないようにな……」や「結局ノーマルルートで登頂するということか」などのドラマティックなセリフは徹底的に取り除く。とりわけ象徴的なのは羽生の最期だ。漫画版の羽生は目を見開いたまま弁慶のごとく絶命するが,映画版ではただ地面にぶっ倒れて死んでいる。偉大なマロリーの遺体と同じように,そしてごく普通の遭難者と同じように。

羽生という男は,あるいは登山家という人種は,絵画的な誇張を廃してなおあり余る異様なエネルギーと狂気に満ちている。映画はよく出来た減算だった。それは概ね成功していた。
ただし深町の高山病シーンが異様に張り切って作られているあたり一貫性が微妙に欠けているし,なによりあの誇張を好んだ身には,どうにも物足りなさが否めない。

わたしの記憶では,漫画版で深町が羽生を見るとき初めに感じるのは「肉体の充実」だった(これは日記なので適当なことを書いてもよい)。ロープさばきでも登攀技術でもなく,また筋肉や脂肪の多寡でもない,「肉体が充実している」ことこそが山ヤの条件だった。

狂気も技術もすべて肉体あっての話,岩壁にへばりつき頂きを踏む肉体のあの感覚が忘れられないからこそ,彼らは山に登るのだとわたしは信じる。「登るのに理由はない」と映画では締めくくられてしまうけれど,「ここに俺がいるからだ」という漫画の回答が真実だと信じる。肉のニオイのない映画版は,誇張を廃したぶん真実に近いようでいて,むしろ真実から遠ざかっている気がするのだ。

書くことがなくなったのでやめる。

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