8月9日に寄せて〜三菱兵器住吉トンネル工場と谷口稜曄さん
8月9日、長崎に原爆が投下された日です。
たまたま長崎に住んでいた時、「ながさき原爆記録全集」という番組が長崎ケーブルメディアで放送されていました。それは原爆投下直後、アメリカが調査へと入る頃撮影されたもので、日本にはないものとされていたフィルムでした。
それが何年か前に大学のゼミ内で場所の特定などの作業を開始し、それを放送していたのです。
ほぼなにもない長崎の街。教会の彫刻建物も壊れてしまいました。
長崎の街は一説には遺跡を残そうとしたが、アメリカから支援を受けること条件に当時の市長が整備し、戦争の面影は資料館のみで見れるものになりました。(あと爆心地に近い小学校もかろうじて残っているのかな?)
そんな中、市電住吉駅近くに三菱兵器住吉トンネルというものがあります。
横堀のトンネルで、空爆から守るため作られたトンネルでした。
原爆投下時、奥で作業をしていた人たちは直接原爆にあったわけではないのですが、近くで被爆した人たちは次々に運ばれてきました。工場などで働いていた女学生などもここに逃れてきたと長崎ケーブルメディアでは当時の生き残りの方からの証言などを伝えていました。
長崎駅なども壊滅しており、道ノ尾にけが人を輸送する列車が到着しており、住吉トンネルから長崎市を出て道ノ尾へ向かい、道ノ尾から諫早などへ運ばれて治療を受けていたのです。
住吉は爆心地から1.8キロ離れていましたが、当時郵便局に勤めていた谷口稜曄さんは背中を大火傷し、痛みに耐える治療をされたのです。
谷口氏は背中のやけどの治療のためうつ伏せに寝たきりになったため、背中に大きなキズを負っただけでなく、床ずれの悪化したもので正面にも癒えぬキズを負ったのです。
谷口氏の写真はショッキングなもので、興味のある方は検索していただきたい。
谷口氏は治療で一命をとりとめたあと、国連などで反核運動に携われました。
さて話は戻り、今は数少ない戦争遺構となった住吉トンネルです。
他の防空壕跡などは道路工事などで消えて行く中、かろうじて残った施設です。
通常門が閉じていて外から覗くだけですが、8月などは開放日があるようです。
開放日でなくても見学できます。
場所柄なのか、平和祈念像などに比べて知名度が低く、見学者もいません。
忘れられなければいいなと思う施設です。「ながさき原爆記録全集」はカラーなどもあり、撮影に際しアメリカ側の指示があったような不自然な笑顔の子どもたちや婦人も収められています。
貴重な番組でシーンがいつか出てきます。
ですが知らないなどと言うことなく知っていたあければ幸いです
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