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石獅子ってなんだろう?

 沖縄と言えば「シーサー」でしょう。狛犬に似た「石獅子」の存在は,案外知られていないのではないかと思う。しかし,その表情やたたずまいの「ゆるさ」は,見る者を引きつけてやまない。そして,「石獅子」の魅力を語り出すと,必ずと言っていいほど「シーサーと同じなのか?」と尋ねられる。「石獅子」と,多くの人が思い描く「シーサー」とは何が同じで何が違うのか(結局同じなんだけど),石獅子ってなんなのか,とてもゆるく考察してみた。

そもそも,私と石獅子との出会い

 今から20年ほど前になる。先輩の先生から頂いた東風平町(現・八重瀬町)の社会科副読本の表紙に,富盛の石彫大獅子が載っていたのである。当時は,「狛犬に似ているかも。」「石でつくられたシーサーもあるのか。」ぐらいにしか思っていなかったのだが,その表情やたたずまいのインパクトから,記憶の中に住み続けていたものと思われる。

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富盛の石彫大獅子とは

 時は流れて2017年6月。初めての沖縄訪問の折りに,ふと,「あの石づくりのシーサーに会えないものか。」と思ったわけである。思ったことは口にしてみるもので,富盛の石彫大獅子との対面が叶った。勢理城(ジリグスク)と呼ばれる小高い城跡に登ると,高さ141.2cm,全長175.8cmの大きな石獅子が圧倒的な存在感を放って蹲踞していた。沖縄県教育委員会と東風平町教育委員会が昭和62年に設置した碑文には,次のような説明があった。石獅子が設置されたのは,1689年。本土で言えば,元禄時代のことである。石造の狛犬が各地に造られた時代より,やや早いのかもしれない。

この獅子は火除け(火返し)として尚貞王21年(1689年)に設置されたもので,フィーザン(火山)と言われる八重瀬嶽に向かって蹲踞している。この獅子が設置される以前は,富盛村では火災が多く,村人はことごとく困ったということが,「球陽」尚貞王21年の項にくわしく記されていいる。今日でも旧暦10月1日(竃のお願)<防火儀礼>の行事にこの獅子を拝んでいる。戦前までは,旧暦9月9日(タントゥイ棒)のときに,村の青年たちはこのジリグスクに集まり,棒踊りを演じた。沖縄各地にある村落祭祀上の目的でつくられた獅子の中でも,最大最古のもので,民俗資料として貴重なものである。

 設置の目的は,火山に対する火返しということだが,この石彫大獅子の魅力は,なんと言っても,その表情だろう。大きく浮き彫りにされた目が,とても印象的である。國吉房次は,「石獅子の起源とそのはたらき」(『民藝』2019年3月号)の中で,次のように評している。

(前略)それ以前の王宮寺社墳墓の獅子像と比べると柔らかなフォルムで,威嚇と言うよりも包容力を感じさせる獅子である。どちらの獅子像も,威嚇しているというより微笑んでいる印象を受ける。村落に襲いかかる物の怪や災厄を,追い払うのではなく包み込んで手懐け,改心させてしまいそうな温かみを感じる。(後略)

富盛の石彫大獅子とアメリカ兵

 富盛の石彫大獅子を写した有名な写真がある。八重瀬町の歴史民俗資料館に展示されているその写真には,以下のタイトルとキャプションが付いている。写真は,八重瀬観光サイトでも見ることができるので,ぜひ,御覧頂きたい。

[八重瀬岳陣地をうかがう米兵(1945年6月18日 富盛・石彫大獅子)]日本軍司令部が摩文仁へ撤退すると,具志頭から富盛を結ぶラインは戦闘の最前線になった。

 そうなのかと思って,石彫大獅子をよく見てみると,胴体にいくつか弾痕のようなものがある。沖縄を守護するはずの大獅子が,アメリカ兵の盾になってしまっていることに(だれがそうしたのか,どうしてそうなってしまったのかなど),非常に複雑な思いが残る1枚の写真である。

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ヒーゲーシ(火返し)のための石獅子

 その後,何度か沖縄訪問の機会に恵まれ,何体もの石獅子と出会うことになったのだが,沖縄南部では,火山として恐れられた八重瀬岳に対するヒーゲーシ(火返し)の目的で置かれている石獅子との出会いがあった。

 2020年1月に訪ねた,八重瀬町東風平には,東西南北に集落を囲むように4体の石獅子が置かれていた。八重瀬町教育委員会が作成した『八重瀬町 石獅子まっぷ』には,以下のように記されている。

 東の石獅子,西の石獅子,南の石獅子はヒーザン(火山)といわれる八重瀬岳に向けて置かれていますが,北の獅子は,近くのガン屋(遺体を運ぶための道具「ガン」を保管している小屋)に向かって置かれています。

 石獅子は,ゆるいデザインのものが多く,コピー元と言われる,富盛の大石獅子とは似ても似つかないようなものも多い。しかし,東風平の4体の石獅子のうち,特に西の石獅子は,蹲踞しているたたずまいやたてがみの彫りの具合など,富盛の大石獅子をまねてつくったものではないかと推察できるような雰囲気を残している。

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 八重瀬町の『石獅子まっぷ』は,大変参考になるが,まっぷが略図すぎて,実際の設置場所が特定しにくいのが難点である。

 2017年11月に,糸満市照屋で出会った,この石獅子も,八重瀬岳をにらむように設置されているらしい。そもそも1mほどの体高があるのに,高い台座の上に乗ってるために,表情をキャッチするのが難しかったが,豪快な笑顔である。イラスト化した方が表情が伝わるのではないかと思い,描いてみた。

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 現地の説明板には,糸満市指定有形文化財(彫刻)としての謂われが,次のように書かれている。(にらみつけているようには見えない・・・)

 この石シシは,字照屋のヒーゲーシ(火返し)として設置されたもので,ヒーザン(火の山)と云われ人々から恐れられた八重瀬岳をにらみつけるように置かれています。旧暦10月の「ヒーゲーシの御願」の時には村御願が行われます。この獅子に関する資料は残っておらず,製作者及び年代は明らかになっていません。市内には,座波・大里・与座・名城にも石獅子がありますが,特に照屋の獅子は見事とされ,美術的価値が高いと言われています。獅子は,字照屋747-1番地照屋バス停脇にありましたが,平成14年3月11日,集落の発展と道路拡張により現在に移設されました。(前位置は歩道にポイントで示す)

ヒーゲーシ(火返し)のイシガントウ(石敢當)

 2019年11月に訪ねた宜野座村惣慶では,どう見ても石獅子だろうと思うものを石獅子とは呼ばず,イシガントウと呼んでいるようだ。集落に3体残っているイシガントウの姿形は共通しており,まるで,芋虫に大きな顔がくっついたような不思議な形をしている。確かに,この形状で,獅子というのはいかがなものかと思わせる。集落の北に置かれたイシガントウは,台座の上に斜めに乗っていることで表情に動きが出ているように思う。集落の北にある久志岳のケーシ(返し)らしい。久志岳もヒーザン(火山)なのだろうか。

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 集落の東に置かれたイシガントウは,安部崎のケーシ(返し)らしい。おそらく,後に造られたコンクリートの台座の上に乗っている。大きくくぼんだ目がつくり出す表情が実にいい。

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 集落の西に置かれたイシガントウは,恩納岳のケーシ(返し)らしい。恩納岳もヒーザン(火山)なのか。表情は,猿っぽい気がする。宜野座村教育委員会が設置した説明板には,惣慶のイシガントウが,悪霊や火災などの災いを返すために,集落の入口に設置されたとの解説がある。

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惣慶集落の東西北の入口には,イシガントウと呼ばれる石灰岩の村獅子が安置されています。かつて人々に不幸をもたらす災い(悪霊や火災など)は,集落の入口から来ると信じられていました。イシガントウは,集落に入ろうとする災いを返す(はね返す)ために置かれたと伝えられています。また,東西北のイシガントウでは,明治44年まで旧暦の9月5日に「シマカンカー」という年中行事が行われていました。シマカンカーは,悪霊が集落へ侵入することを防ぐ目的で催される祭祀であり,かつて集落にあったウシナー(闘牛場)で牛(または豚)を潰し,その肉を煮て3箇所のイシガントウに供えていました。なお,供えた肉は集落の人々に分け与え,子供たちには「一口食(チュクチクェー)」といって一口ずつ配っていたそうです。その後惣慶では暫くシマカンカーが途絶えていましたが,1985年(昭和60)に復活し,現在も集落の大切な年中行事として続けられています。

ヒーゲーシ(火返し)のつもりが・・・

 2020年1月に訪ねた南風原町本部の石獅子は,表情のゆるさで群を抜く。現地の説明板には,南風原町教育委員会により,以下のような説明がされている。

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この石獅子は,字本部の南南西の方向にある東風平の八重瀬に対するフーチゲーシ(邪気返し)の目的で造られたと伝えられている。八重瀬がヒーザン(火山)として恐れられていたことは,南部一帯に広く伝承されている。また,これは形態・表情が他の石獅子とくらべ大変ユニークな点も大きな特徴である。

この場所の説明には,このとおり,八重瀬岳へのヒーゲーシ(火返し)の目的で,設置されたように書かれているのだが,隣り合う南風原町字照屋の石獅子の説明を読むと,どうも設置する向きを間違えたのではないかと思われる。本部に対抗する形で置かれた照屋の石獅子は2体残っているが,そのうち1体は,こんなとぼけた表情をしている。

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照屋の石獅子は,本部の集落に向かって立っている。本部では石獅子を東風平の八重瀬に対するフーチゲーシ(邪気返し)の目的で造ったが,結果的に照屋にむくかたちになり,それに対抗して造ったといわれている。また両集落間にはかつて湧井戸問題でしばしば抗争があったとの言い伝えもあり,歴史をしのばせる貴重な石獅子である。

 抗争を繰り広げる2つの村落に置かれた邪気返しの石獅子の表情が,お互いにこんなにゆるいのは,どうしてなのだと思わずにいられない。この表情で戦意を喪失させるのだろうか。対抗する集落へのフーチゲーシ(悪風返し)の目的で置かれた石獅子には,上間でも出会った。

災いを払う・カンクウカンクウとは

 2019年11月に訪ねた上間の石獅子は,「カンクウカンクウ」と呼ばれているらしい。上間自治会が,石獅子の設置場所を改修した際につくった説明板の内容が非常に興味深い。

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この石獅子は上間村の古くからの伝承で,「カンクウカンクウ」と呼ばれている。名称のいわれ,制作者,設置年代は不明。上間村には現在木彫りの獅子一体と石彫りの獅子三体が村の守護神として祀られている。石彫りの獅子は,元々は五体あったが去った太平洋戦争で二体は焼失した。この獅子は,南山八重瀬グシクへの返し(ケーシ)といわれている。村の南側のムンヌキムン(魔除け),フーチゲーシ(悪風返し),災厄を払う村の守り神である。琉球の三山紛争時代,上間は南山勢との戦に幾度も参戦した。石獅子は敵方からの災いを払うために据えられたもので,全て南山勢を睨んでいる。

王府の別邸に置かれた石獅子

 ここまでに紹介してきた石獅子は,村落ごとに置かれた「村獅子」である。2019年11月,村落獅子とは異なり,王府の別邸に置かれていたという大石獅子に出会った。名付けて「御茶屋御殿石造獅子」。富盛の石彫大獅子とは,何か共通性を感じるものがあるが,これまでに見てきた村獅子とは,彫刻としての精緻さが違う。

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 1677年につくられた王府の別邸御茶屋御殿にあった石造の獅子で,火難をもたらすと考えられた東風平町富盛の八重瀬岳に向けられていました。18世紀,文人として名高い程順則が,御茶屋御殿を詠んだ漢詩「東苑八景」に「石洞獅蹲」と記され,御殿を火災やその他の災厄から守る獅子が称えられています。もとは,現在の首里カトリック教会の敷地にありましたが,がけ崩れの恐れが生じたので現在地に移しました。

 この獅子が,1677年にはあったとすると,1689年に置かれた富盛の石彫大獅子よりも,こちらの方が古いことになる。村獅子としての石獅子の始まりと言われる富盛の石彫大獅子は,もともと王宮を守護していた石獅子を参考にしたものなのだろうか。

石獅子は火伏の霊獣か?風水と獅子像の融合か?

 荒俣宏は,著書『獅子 王権と魔除けのシンボル』(集英社 2000年)の中で,狛犬のルーツを中国の魔を払う霊獣「辟邪(へきじゃ)」像に求め,さらに辟邪の原型になったといわれる獬豸(かいち)について,次のように述べ,シーサーとの関連を暗示している。

 朝鮮半島には狛犬はいないが,獅子像と「角のある辟邪」像はある。特に辟邪の原型になったといわれる獬豸が,半島で火伏の守護獣とされていることがおもしろい。沖縄のシーサーについては次のような伝説が残っている。「17世紀尚貞王のとき,ある風水師が,火の性質をもつ山のそばにあった村を火から守る方法を伝授した。獅子の石造を山に向けて建てよと教えたのである。以来,シーサーは火伏の守護獣となった。」

 これまでに,見てきたように,多くの石獅子は,火難除け,火伏の目的で設置されている。「角のある辟邪」像と,角のない「獅子」像は違うものだと思うが,琉球へは,火伏の霊獣像としての意味をもって「獅子」像が伝わったのだろうか。たぶん,そういうことではないのだろうな。

 國吉房次は,「石獅子の起源とそのはたらき」(『民藝』2019年3月号)の中で,石獅子の起源を以下のようにまとめている。火伏に特化した守護獣の像が伝わってきたと言うよりは,獅子像と風水思想が合わさって,火返しの役割を担う像として広まったということだろうか。「獅子像+風水=火伏の石獅子」こちらの方が,考え方としては,スッキリするかな。

 沖縄にはもともとの石神信仰がベースにあり,獅子の形に見立てやすい琉球石灰岩がふんだんにあったこと,魔除け,火難除けという庶民の願い=「用」があったところに,中国から入ってきた風水思想と獅子像文化がうまくニーズを満たしたことから,短期間のうちに多くの村落に広まったと分析することができるが,いずれにしろこれらの石獅子は村落共同体の守り神として,村落の境界に鬼門に向けて据えられ,人々の崇拝の対象となってきた。

ところで,シーサーのイメージは?

 おそらく,多くの人がイメージする「シーサー」は,お土産物屋さんに並んでいる2体1セットの阿吽の焼き物ではないだろうか。実際,自分もそうだった。沖縄と言えばシーサー,できるだけ大きいものを買いたいと思っていた。これら焼き物のシーサーをやちむん(焼き物)シーサーと言うらしい。

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 また,街を歩けば,ホテルや公共施設,お店の入口だけでなく,民家でも2体1セットの阿吽のやちむんシーサーを飾っているところが多く見られる。

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 このようなイメージのシーサーと石獅子とを比べると,同じものなのか?という疑問が沸いてくる。一方は皆単体なのに,もう一方は阿吽のセットで材質も違うし,石獅子に比べると獅子然としているというか,より唐獅子っぽい気がするから。

屋根に乗る漆喰シーサー

 さて,ここでもう一つ,沖縄のシーサーと言えばこれだろう!というのが,赤瓦の屋根の上に乗る漆喰シーサーでしょう。

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 國吉房次は,「漆喰シーサーの歴史と現在(上)」(『民藝』2009年11月号)の中で,沖縄におけるシーサーの起源と歴史を次のように整理している。

沖縄におけるシーサー(獅子像)彫刻の歴史をたどれば,15世紀後半まで遡る。尚真王代,浦添ようどれ石棺に獅子像が刻まれたのが嚆矢とされ,以後立て続けに,首里城の瑞泉門や歓会門,円覚寺放生池石橋欄干,玉御殿の玉抱き獅子や子抱き獅子,首里末吉宮の獅子像など,王宮や寺社仏閣の建築装飾として石製獅子像が作られている。(中略)以上で見てきた寺社仏閣や王宮の獅子像は,権威の象徴として据えられた意味合いが強いが,次に民間レベルでの獅子像彫刻について考えたい。民間レベルの獅子像は17世紀末,東風平町富盛に,火伏の目的で風水に則って石像獅子が作られたものが,記録に残る最古のものと見なされている。この獅子像を設置した後,富盛集落では実際に火事が起きなくなったので,庶民から降魔除災の守護神としての信仰を集め,南部を中心に各村落ごとに獅子像が作られるようになってゆく。(中略)古いものでは,18世紀中頃に制作された厨子甕に,獅子面を確認できる。厨子甕の獅子像は,魔除けと装飾をかねたものとして,時代を経るにつれ形も複雑になり,装飾も華美になっていく。レリーフの獅子面は,やがて頭像(チブルシーサー)になり,ついには全身像として作られるようになっていった。そうした中で,厨子甕を作る陶工の腕が磨かれていき,後に獅子像を独立させて作る素地が準備され,また,現世で住む家の屋根にも獅子像を置こうという発想が,生まれたと推測される。そして,実際に獅子像が民家の屋根にあがったのは,19世紀中頃であろうと推定されている。

乱暴かもしれないけれど,簡単に整理すると,次のようになる。

○15世紀後半に,石棺に石造獅子が刻まれたのを契機に,王宮や寺社仏閣の建築装飾として石造獅子像が造られていく。

○17世紀末,民間においても,富盛の石獅子設置を契機に,村落獅子(石獅子)が広まる。

○18世紀中頃以降,厨子甕(陶器製の骨壺)を飾った獅子面が,頭像を経て,全身像として独立。(陶器製のやちむんシーサーが造られる)

○19世紀中頃以降,(庶民の瓦葺き禁止規制が解かれ,瓦の需要が増して陶工も瓦を造るようになって瓦職人と陶工の技術交流が生まれるようになり)民家の屋根に漆喰シーサー(瓦片と漆喰で造られた)が上がるようになる。

 石だったり,陶器だったり,漆喰だったり材料が異なる獅子像が,それぞれに普及の契機があって,広がっていったことが分かる。しかし,王宮や寺社仏閣の獅子像は別として,庶民レベルの村獅子や屋根獅子(漆喰シーサー)は,皆単体で置かれたものであり,阿吽のセットで造られていたとは思われない。

パートナーはいないのか?

 では,なぜ2体セットのシーサーをよく見かけるようになったのか。現地で,こんな話をきいた。

戦後,アメリカ軍の基地ができ,米兵がお土産を求めるようになった。その際,単体のシーサーを見て「パートナーはいないのか?」と言ったらしい。それを契機に,夫婦(阿吽)のシーサーをお土産として売るようになり,現在も2体セットが一般的なっている。

 できすぎた話とも思えるのだが,あり得なくもないような・・・王宮や寺社仏閣の場合は,2体1セットのものも多いようだし,民家の門柱などに置く場合も,1体よりは,2体の方が収まりがいいもんね。より多くの人が自分の家にも置くようになるにつれ,2体セットで置くことが民間レベルでも一般的になったのかもしれない。

 石獅子も稀に,パートナーがいる場合がある。上間の「ミートゥンダシーサー」がそれ。2019年11月に,苦労して探り当てたが,もはや,石の塊にしか見えないような気もする。これが夫婦らしい。

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上間自治会設置の説明には,以下のように書かれている。

「ミートゥンダ」とは夫婦の意で雌雄二体のシーサー。糸数グスク,玉城グスクへの返し(ケーシ)といわれている。由来は,琉球の三山紛争時代に上間按司が糸数グスクを攻め亡ぼした。その怨念が悪霊となって寄せてくるのを押し返す悪風返し(フーチゲーシ)で,災いを村に入れない守り神である。制作者,設置年代は不明。元々は,ここより24米ほど北側にあった。

結論・みんなシーサーでいいんじゃない

 若山大地,恵里 夫妻は,「沖縄の石獅子ー沖縄本島の村落獅子四十五体の解説」(『民藝』2019年3月号)の中で,「そもそも石獅子とは何なのか?」という問いに次のように答えている。結局,沖縄で見る獅子風のものは,皆シーサーでいいと思うのだけど,どうも種類があるようだ。

 簡単に言えば石製の獅子・シーサーということですが,今回巡った獅子達は,“村落獅子”(一部屋敷獅子もありますが)という部類の獅子になります。獅子,シーサーは時代順に大きく分けて,お城や神社などに安置される“宮獅子”,王家の別邸に安置された“御殿獅子”今回紹介する“村落獅子”屋敷・住居の門柱や屋根上などに設置される“屋敷獅子”の四つに分類できるようです。

 さらに,若山夫妻は,狛犬との違いに触れながら,沖縄のシーサー文化について,次のように述べている。

よく,富盛の石獅子がシーサーの元祖と呼ばれる理由は,首里城の獅子のような権威の象徴ではなく,市井の人々によって主体的に安置されるという,そうした民俗性が屋根上の漆喰シーサーや門柱のやちむん(焼物)シーサーに現在まで受け継がれているからだと思います(本土の狛犬を住宅に設置する習慣ってないですよね?形を変えながら現在進行形で伝承が続いているのが沖縄のシーサー文化の最大の特徴だと思います)。 

 「石獅子ってなんだろう?」という問いを持って,これまでに見聞きしてきたことを,ゆるく整理してみた。結局,石獅子はシーサーの一種であり,村落獅子と呼ばれるものを指すことが多いようだ。そして,民間レベルでは,石獅子がシーサーの起源的なものと考えても良いのではないだろうか。そこには,王侯貴族ではない,一般の人々の思いや願いが込められ,やがて少しずつ形を変えながらも,多様なシーサー像として受け継がれて,今も大切にされている。それが,シーサーなのだと思う。

 中でも,石獅子はデザインがシンプルで,表情やたたずまいの「ゆるさ」が特徴的である。その「ゆるさ」ゆえに,見る者は,表情を多様に読み取って自分自身の思いを重ねることができる。そこが,魅力であり,私が,シーサーの中でも,特に石獅子に惹かれる理由である。

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